アラクネ被害報告書
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足元がふらつきながらも、私は森の中を懸命に、一歩一歩前に進もうとしていた。
もはや気力だけで前進しているようなもので、意識が朦朧としている。
出発時に持っていた、十日分の食料と治療具や回復薬の類は、今から三日前にホーネットの群れに襲われたときに失った。
体の傷は衣服を裂いて応急的な包帯を巻いたが、あくまでこれは応急処置。早急に治療をする必要がある。
しかし、ここは森のど真ん中。それほど規模は大きくないにしても、外部から助けが来る可能性は低い。
それに、先ほど述べたホーネットのほかにも、様々な魔物がいる。
魔物だけが脅威ではない。猛獣の類が襲い掛かってくることも考えられよう。
私は今一度、小脇に抱えたぬいぐるみの手をしっかりと握った。
ホーネットの襲撃の際にボロボロになったが、奪われなかったのは不幸中の幸いだ。
歩く、歩く、歩く。空腹が私の内側から痛めつける。脳が霞む。目の前がぼんやりとなる。足が持ち上がらなくなる。
そのまま前のめりに倒れてしまったと気がつくのは、もう少し後のことである。


「かかったな」
ガサッ。
「久々に人間の男……。今日は運がいい」
ガサッ。ガサッ。
「……様子がおかしいわね。全く抵抗しない……いや、微動だにしないわ、あの男」
ガサガサガサッ。
「……怪我、だけじゃないわね。随分お腹も減ってるみたい……。まだ助かるわね」
バシュッ。キュルキュルキュル……。


目覚めた時にまず感じたことは、暖かさだった。
自分は今、ふわふわとしたハンモックのようなものに寝かされていて、白い何かで体を巻かれている。
傷口は消毒され、ぼろの包帯の代わりに白い何かが巻きついている。
そして、ありがたいことに空腹ではない。干からびていた喉も潤っており、口の中にはかすかに肉の味がした。
どうやら私は、無意識の内に食事を済ませてしまったようだ。この方法での食事方法は、口移しくらいしか思いつかない。
「目が覚めたようね」声がした方向へ顔を向ける。それは、右でも左でもなく、上からだった。
彼女はするすると、私の前に降りてきた。そのままぶら下がった状態で、私の顔を見る。私も彼女を見る。
銀色の髪、尖った耳。禍々しくも繊細なデザインのティアラ。額には、瞳の輝きと同じ色の宝石のようなものが埋まっている。
そして何より、彼女の下半身……黒く細長い足がたくさんと、昆虫的に膨らんだ尻尾のようなもの。
私の知識が正しければ、彼女は「アラクネ」という蜘蛛の魔物である。額の宝石のようなものは、複眼だろうか?
となると、私の体を包んでいるものや、傷口を覆う包帯の代わりのものは、彼女の出した糸ということになる。
彼女がお尻から出た糸で逆さにぶら下がっているのを見ると、衛生上大丈夫なのかと不安になった。
傷を覆う糸を鼻に近づけ、においを嗅いでみる。無臭……いや、かすかに甘いいい香りがする。
「……あなたが助けてくださったのですか?」私は起き上がり、ハンモックの上で姿勢を正した。
「私はキニスン=ブライトンと申します。この森の先にある街に用があったのですが、
 道中でホーネットの群れに襲われてしまいまして……」
「ああ、やめやめ。別に事情を説明してくれなんて言ってないよ」そう言うと彼女は口からヒュッと糸を出し、
手近な木々の間に足場を作った。どうやらお尻からだけでなく、口からも糸を吐けるようだ。
遅すぎることは重々承知だが、私の体を覆う糸が口からの糸であることを願おう。
「アタシは別に善意でアンタを助けたわけじゃない。わかるだろ? アタシは魔物、アンタは人間。しかも、女と男だ。
 アンタの体力が回復したら……その先のことは、言わなくてもわかるわね?」
ありがとう、という言葉が出かかっていたのだが、彼女の言葉に呆気にとられて何も言えなかった。
これが興ざめというものなのだろうか、などと考えながら、私は身の周りを調べた。
倒れた際にはしっかり握っていたはずだったが、意識がない間に手が緩んだのだろう、ぬいぐるみがなくなっていた。
「アンタ、何を探してんだい?」アラクネはどこか見下したように、私に声をかけてきた。
「アラクネのお嬢さん、私が倒れていたとkぶぐぉっ!!」……私にはその一瞬のうちに何が起きたのか、わからなかった。
「おおおおお、おじょおじょ、お嬢さんだとっ? ふ、ふざけんじゃないよっ!
 もうそんなお世辞の通じるような歳じゃないことくらい、アタシ自身が一番よく知ってるわっ!」
「ご……ごべんばさい……」アラクネは顔を真っ赤にしている。どうやら私は殴られたらしい。
「あっ」我に返ったらしいアラクネは、慌ててそっぽを向いた。
「……いきなりすまなかったね。慣れないお世辞を言われたもんだから、つい……」
「いえ、私こそ何と呼べばよいかわからずにいたので……失礼な事を言ってしまって、申し訳ありません」
「な、殴ったのはアタシなんだ。アンタに非はない。名前も言ってなかったアタシが悪かったんだ」
そうだ。私はまだ彼女の名前を教えてもらっていない。
「あの……じゃあ、お名前を教えていただけますか……?」
彼女は肩越しに振り返った。その動作は何気ないものだったが、私にはとても美しく見えた。

―ドクン。

無意識に口が開く。その色っぽい表情に、私は釘付けとなってしまった。
「……シルバーシルク」
「えっ……?」
「シルバーシルク、それがアタシの名前さ。アンタら人間の名前の雰囲気とは全然違うけど……笑ったりするなよ」
「シルバーシルク……銀の絹、か……。いい名前ですね……」
シルバーシルクは、再びそっぽを向いてしまった。蜘蛛の尻尾がひくひくと、細かく上下している。
そして、彼女の名前どおり、銀色の絹のようになびく後ろ髪が、私の心を満たしていくのを感じた。
「それで、アンタ……キニスンと言ったか? 何を探しているんだい?」
「あっ」彼女の一言で、私は我に返った。
「シルバーシルクさん! 私が倒れていた時に持っていたぬいぐるみを知りませんか?」
その瞬間、シルバーシルクは蜘蛛の糸からずっこけ落ちた。お尻から出した糸で何とかぶら下がっているが、
蜘蛛の足はまだバタバタさせている。
「はぁ? ぬ、ぬいぐるみだって?」シルバーシルクはあからさまに侮蔑的な声を出した。
「そうです、ぬいぐるみです」
「アンタ、大の大人がぬいぐるみに現を抜かしているなんて、聞いた事がないわ!
 何なのアンタ、夜中にクマちゃんがいないと寝れないとでもいうの?」
「いえ、ぬいぐるみはクマではなく……」
「ははぁ、それじゃアンタ、ロリコンってやつね。少女のぬいぐるみを抱いて寝るわけね。きもーい!」
「いえ、少女のぬいぐるみではないですよ。男の子のぬいぐるみです」
「じゃあアンタ……ショタコン? え、ボーイズラブ……? ホモなの?」
「何でそういう方向に持っていこうとするんですか。全然違いますよ」私はいささか疲れてしまった。
「んじゃ、何なの? そのぬいぐるみ、何か特殊な力でも秘めてるの?」
「そうではありません。ぬいぐるみ自体には、何の力もありません。でも、私にはそのぬいぐるみがなくてはならない……
 そうですね、いわばパートナーというやつです」
シルバーシルクの顔には、やはり理解できないといった表情があった。
どちらにせよ、彼女がぬいぐるみを知らないことには変わりがない。これには大いに弱った。
「仕方がない、自分でぬいぐるみを探しに……」

バシュッ。
「おやおや、どこへ逃げる気だい?」
立ち上がりかけたところで、私はハンモックの下からシルバーシルクの吐いた糸に引きとめられた。
「アンタ、自分の置かれている状況がわかってないんじゃない? くどいようだけど、アタシは魔物でアンタは人間なんだ。
 せっかくの人間をみすみす見逃してやるほど、アタシは生易しくはないわよ」
下向きに引っ張られて、私はハンモックにうつ伏せになって倒れた。あんまり親しく話をしていたので、
つい私は自分の立場を忘れてしまっていた。私は彼女の餌だった。決して自由の身ではない。
だが、先ほどから彼女が繰り返している言葉―「アタシは魔物でアンタは人間」という言葉が引っかかる。
彼女は、人間と魔物が相容れあうことができないと思っているのだろうか?
ならば、その誤解を解くことができれば……少なくとも、彼女の人間に対する価値観が変わってくれたら……。
いや、変わったところで、私は自由を得られるとは限らない。彼女が私のことを気に入り、この森に縛り付けてしまう事もあり得る。
それはそれで悪くはないかもしれないが、最善であるとは言い難い。
シルバーシルクは飛び上がり、私のぶら下がるハンモックの裏に逆さまに飛びついた。彼女の顔が、私の目の前にある。
彼女の目が怪しい光を帯びる。舌なめずりをする。呼吸に甘ったるいものを感じる。
彼女が本能のままに動く前に、私は彼女の理性に訴えるしかない――。

「あなたは、外の世界を知らないのですね」
私は賭けに出た。

「外の世界?」シルバーシルクの顔が一瞬にして怒りの形相に変化した。
「笑わせるんじゃないわ。アタシは知ってるよ。人間は魔物を、己の種族を根絶やす悪と見なして殺してる。
 一ヶ月前にこの森を訪れた連中だって、アタシを見るなり襲い掛かってきたわ。敵意も殺意もむき出しでね。
 みんな殺してやったわ。こんな連中の汚らしい精液なんて、誰が飲んでやるもんですか。
 それが外の世界の人間なんだろ? アタシら魔物は表を堂々と歩くことすらできないのさ。
 魔物と人間は水と油さ。決して混ざり合うことはできない。理解も共存もへったくれもない!
 だからアタシはあんたを捕縛したのさ。アンタが外の世界に戻って、仲間を連れてこないようにさ。
 アタシも生きるためだ、人間という危険な存在を野放しにしておくつもりは更々ないわ」

全てを言い終えたシルバーシルクは、わなわなと震えていた。過去に人間から、よほどひどい仕打ちを受けたのだろう。
だとしたら、彼女が人間不信になるのも自然なこと。彼女の言い分はもっともなことだ。
だが――。

「あなたの世界は、何と狭いことでしょうか」
「何っ」シルバーシルクが露骨に怒りをあらわにしようが、命を賭けの代償に引っ張り出した私には関係がない。
「それだけで全ての人間を知ったつもりになるのは、経験が浅すぎるというものです。
 確かに、そのような人間が多いことは否定しません。国を挙げて魔物狩りをしている地域もあります。
 でも逆に、魔物が絶対的に悪であると決め付ける教えに、疑問を持つ人たちもいます。
 ワーウルフやラージマウスは、元々が人間であった者に魔物が噛みつくことで魔物へと変化します。
 果たして、噛みつかれた元人間は悪でしょうか? いや、そもそも魔物は悪なのでしょうか?
 何故善だの悪だの白黒つける必要があるのでしょうか? 生きることが悪だと言われた者は、どうすればいいのですか。
 しかし、『魔物狩り』という行為は、私にとって悪です。
 いくら殺す側が己を正当化したところで、幼い子供を殺すことは悪に変わりがない。
 私の幼馴染のワーラビットは、五歳の頃に魔物狩りの人間に殺されました」
久々に感情的になっている。話に熱が入りすぎないよう、私は一つ息を吸い、冷静さを取り戻した。

「人間と魔物。何故いがみ合う必要があるのでしょうか? 人間とほとんど変わらない、
 むしろ人間の方が危険な力を持つケースもあるというのに。
 そういった考えを持つ人たちが、人間と魔物の共存を目指して暮らす土地があります。
 何を隠そう、私もそういった土地の出身でしてね。私の周囲は優しさに溢れていました――人間も、魔物も。
 信じるも信じないも自由ですが、私は捨て子でしてね。まだ赤ん坊の頃に、エキドナに育てられたのです。
 とても優しいお母さんでした。シチューを作るのがとても上手で、高等魔法をいとも簡単に操る。
 それでいて、村の教会に勤める信心深いシスターでもあった。『足の無い聖女ルルララ』、それが私の母です」
シルバーシルクは唖然としていた。このような顔は、今までにも見たことがある。
もっとも、それは魔物共存派でない人間特有の反応で、話をした直後に私は罵られるのが常だった。
『足の無い聖女』の名前は魔物共存派の中では知っている者も多く、討伐派でも諸侯クラスの人間や、
多くの情報通の集う酒場のマスターなら、うわさくらいは知っている者もいる(まったく、ひどく歪曲された内容だった!)。
私の話はなおも続く。 

「しかし、未だに魔物討伐派が多数派の世の中。私の住む村は異端分子の拠点であるとして、破壊されました。
 以来、私は魔物共存派の土地を転々としながら、少しでも魔物と人間の相互理解を深めようと旅をしています。
 その傍ら、行方不明になった多くの村人の情報を集めました。多くの人々や魔物は死んでいましたが、僅かながら
 生き残っている方もいました。しかし、最も逢いたいと思っていた人物……私の育ての親ルルララの情報は見つかりませんでした。
 ……二ヶ月前までは」
「つまり、見つけたのかい?」私の話にすっかり飲み込まれたシルバーシルクは、催促するようにハンモックを揺らした。
「えぇ。それが、この森を抜けたところにある街です。足の無い聖女は、今もなおそこに生きている。
 私は母の姿を、もう十年以上見ていないのです。早く顔を見せて、私が元気であることを伝えたいのです」
シルバーシルクの顔が、私を値踏みするような表情になった。獲物としての価値ではなく、私の人間性を見ているのだろう。
「事情はわかった。だが、それとぬいぐるみが何の関係がある?」
「そうですね……そのぬいぐるみが幼馴染であるワーラビットの形見で、
 私が何者であるかの証明ができる品である、と言えば満足していただけるでしょうか」
こちらとしては、それで満足してもらわなければ困るわけだが。
「……わかったわ。アンタの話、一応信じてみるとするわ。アンタの話の様子だと、人間もまだまだ捨てたもんじゃないわね。
 それより、こんなところで油売ってる暇はないんじゃないの?
 さっさとぬいぐるみ探して、お母さんのところに顔見みせてやりな! アタシも手伝ってやるからさ」
シルバーシルクはそういうと、にこっと笑った。その笑顔はとても眩しく、私の心に彼女に対する安心感が広がっていくのを感じた。
おそらく、その笑顔に……いや、もっと前から、私は彼女の虜になっていたのだろう。
私にしては、随分思い切ったことを口走ってしまった。

「……もしぬいぐるみが見つかったら、私と一緒に外の世界で暮らしてみませんか、シルバーシルクさん?」
一瞬、シルバーシルクの顔が虚を突かれたようになった。が、すぐに強気な笑みを浮かべ、ハンモック越しに私の頬を撫でてきた。
「シルキーでいいわ、キニスン。こちらこそお願いするわ。アタシをこの狭い森から、広大な外の世界へ連れ出して頂戴!」


ぬいぐるみは、その日の夕暮れ時に見つかった。見つけたのは、シルキーだった。
「その……残念だったな、キニスン……」見つかったぬいぐるみはホーネットに襲われたときよりもボロボロで、
中から綿が飛び出ていた。
「いえ、これまでも何度かボロボロにしてしまいましたし、もっとひどい壊れ方をしたこともあります。
 どうも私は、あまりいい持ち主になれないらしくて……」
「何言ってるのさ! そんなに一つのぬいぐるみを大事にできるなんて、カッコいい事じゃない! 幼馴染も喜んでくれてるさ」
「そう……でしょうか……?」今までそのように言われた事がなかったので、私は純粋に照れくさかった。
「そうに決まってるよ! そうだ!」シルキーがぱちんと両手を叩く。
「アタシがこのぬいぐるみ、直してやるよ!」
「えっ、シルキーさんが?」思わず私の声が裏返る。アラクネが裁縫上手なのは知っていたが、特別な場合でなければその腕前を
見ることが出来ない、と聞いていた。つまり、私は彼女にとって「特別」なのだろうか?
「あら、こう見えても私、お裁縫は得意なのよ。ぬいぐるみを直すくらい、朝飯前よ。
 今晩は徹夜して腕によりをかけて直してあげるわ。明日の朝、きっと驚くわよ」
シルキーは壊れたぬいぐるみを優しく抱きかかえると、私の肩をぽんと叩いた。
「大丈夫、アンタは安心して寝てなさい。何かが襲ってきても、アタシがいるから」

その日の夜、私は久々にぐっすりとした眠りについた。
暗い森の中であるにもかかわらず、誰かに護られているという安心感があるだけで、随分神経が楽になる。
私は、シルキーから愛を感じていた。この短時間で愛だの恋だのを言うのはいささか陳腐かもしれないが、
彼女の優しさはしっかりとこの身に感じ取っている。
私の育ての親であるルルララも、同じく私を愛していた。
「愛は必ず倍になって、自分に返ってくるのよ」。母は幼い私にそう教えたものだった。
「それは悪意や憎しみも同じこと。自分の行いはいいことも悪いことも、全て倍になって返ってくる。
 なぜなら神様が、私たちのことをずーっと見てるからなのよ。だからキニスン、あなたは愛せる人間になりなさい。
 誰か一人でもいい、自分の愛をどこまでも注ぎ込める人を見つけなさい。
 そうすれば、あなたに真の愛が与えられる。あなたは真の愛が注げるようになる……」
おそらく母も、私に真の愛を注ぎ込んでいたのだろう。
幼い私には、母に愛を注ぎ返せていたかはわからない。だが、今の私にはシルキーがいる。
母に逢えた時に、私は真の愛をシルキーと母に注ぐことができると思っている。
きっと母は、私とシルキーを愛し、祝福してくれるだろう――。


明朝。うっすらと朝もやが立ちこめる中、私は目覚めた。
私のすぐ隣には、裁縫道具を片手に眠るシルキーと、無事に元の姿に戻ったぬいぐるみだった。
手に取って調べてみると、傍目には接いだ箇所の縫い跡が見つからない。アラクネの裁縫技術が優れていることは聞いていたが、
ここまで高い技術を持ち合わせているとは。
「ふぁ〜……あ、起きてたのか」シルキーは眠そうに目をこすると、大きく背中を伸ばした。
「おはよう、シルキーさん。あの、ぬいぐるみ……どうもありがとうございます。ここまで見事に修繕されるなんて……」
「いいのいいの。朝っぱらから恥ずかしいこと言わないでよ」彼女はそうまんざらでもない顔をしながら、私の頬を指でつついた。
頭の中で「バカップル、バカップル」と謎の声が響いた気がするが、気にしない方がいいだろう。
「あ、そうだキニスン。ちょっと見てもらいたいものがあるの。こっちに来てくれない?」
言うが早いか、私はぬいぐるみを握ったまま半ばキルシーに引きずられるようにして、とある樹の根元に連れて行かれた。
「ちょっとここでまってなさい。いい物を持ってくるから」そう言い残すと、シルキーは上に糸を発射して
するすると昇っていってしまった。

しかし、数分が経過してもシルキーが降りてこない。不思議に思っていると、突如上からキルシーの悲鳴が聞こえた。
「きゃああああー!!」
強気な顔のくせに悲鳴は可愛いんだな、などと戯言を抜かしている状況ではない。
私はすぐさま上を見た――そして、唖然とした。
「うーん、こいつはラッキー。まさかアラクネの作った衣服が手に入るなんてねぇ」
「たいちょ〜、こいつ衣服のほかになーんにも持ってないですよ〜」
「少し前に十分稼いだじゃん、それと今回の奴を足して2で割ればトントンよ」
そこにいたのは、いつしかのホーネットの群れ……そして、二人掛りで捕らえられたシルキーだった。
「くそっ、放しなさいよ! 汚い手で……その服に触るんなじゃいわ!」
「ったく、アンタもしつこいわね。状況把握できてんの?」リーダー格のホーネットが、シルキーの腹に蹴りを入れる。
「が……はっ……」
「あっはっはっはっ、だっさー。あんまり出しゃばんじゃないわよ。
 アンタが黙ってりゃ、こっちも大人しく略奪だけで済ましといてやんのに。
 ……あら、何この服。ダサいデザインねぇ。こんなのじゃ女王様はお喜びにならない……」

ガシュッ。

ホーネットの言葉は、打撃音とともに途切れた。
「た、たいちょ〜!」
「何者っ!」
「……これは?」
木の枝の上にあったのは、私のぬいぐるみだった。
「さぁ、あなたたち! 痛い目を見たくなければ、彼女を自由にして、奪ったものを返すんだ!」
「き、貴様この前の!」一匹のホーネットが私に気がついた。仲間たちと顔を見合わせ、一斉に私目掛けて飛んでくる。
「先日奇襲を受けたときとは違うぞ。私には戦う術がある!」
私は指を、腕を、大きく動かした。すると、その動きに連動してぬいぐるみが動いた。
ぬいぐるみは高速で動き回り、ホーネットたちを撹乱する。時折ホーネットを殴ったりして、徐々に一箇所に追い込む。
全て計算どおりだ。
「なっ、何だこれは!」
「ぬいぐるみが動いた〜!」
「オバケ〜!」
どうやら彼女たちは、この手の知識に詳しくないらしい。
「傀儡術は初めてですか? 私はエンチャンターと言ってね、人形に自分の魂の一部を入れ込んで
 自由に操ることができる、人形遣いなんですよ。この前あなたたちに応戦できなかったのは、ぬいぐるみに操り糸が
 結んでなかったからです。しかし、今このぬいぐるみには……」私は人差し指をクイッと引いた。
「うぐっ!」一匹のホーネットの動きが止まった。
「このとおり、糸があります」動きの止まったホーネットの体には、ぬいぐるみの操り糸が無数に絡みついていた。
「この野郎、よくも……! こんな糸、アタシが叩き切ってやる!」リーダー格のホーネットが槍を振り回した。
「無駄です」槍が操り糸に数回ぶつかるのを感じたが、私の魔力が流れている糸は、勿論断ち切れることがなかった。
逆に、不用意に動いたために操り糸が絡みつき、リーダー格のホーネットも動けなくなってしまった。
「さぁ、どうしますか? 彼女を自由にして、奪ったものを返しますか?」私はホーネットたちをギラリと睨んだ。
「わかっ……た……。だから、助けて……」
「その一言が聞ければ安心です」私は指を軽く振るい、糸に籠められた魔力を解放した。糸がぷつりと切れたぬいぐるみは、
私の元に真っ直ぐ落ちてきた。
「おぉとと」ナイスキャッチ、と私は心の中で小さく拍手した。
「ち、ちきしょう! 退却だ!」
「あ、たいちょ〜!」
「ぬいぐるみがトラウマになるわ、これ……」
ホーネットの群れは、一目散に飛び去っていった。

「シルキーさん、大丈夫ですか?」
「あぁ……それよりもアンタ、さっきの……」シルキーはぬいぐるみを指差した。
「あぁ、傀儡術……。魔法の一種でしてね。糸に魔法を……」
「そうじゃない、ぬいぐるみっ! そのぬいぐるみが武器だったなんて、一言も聞いてないわよ!」
シルキーは私の胸倉を掴み、がくがくと揺さぶった。
「やだなぁシルキーさん、これは正真正銘、ただの思い出深いぬいぐるみです。武器じゃありませんよ」
がくがくがく。
「……ほ、本当? 夜中に一人歩いて、寝首を取られるようなことはないのね?」
「そんな、呪いの人形みたいに言わないで下さい」露骨に怖がられて、私は少し凹んだ。
がくがくが緩んだところで、私はシルキーの手を取り、握った。
「それで、見てもらいたいものとは……」
「あっ……」シルキーの顔はみるみる赤くなっていった。その理由は、一つではないはずだ。
「さっきさ……ホーネットが奪おうとしてたやつでさ……。ほら、いつまでもそんな衣服のなりそこないみたいな
 もののままじゃいられないし……。その……デザイン、ダサい……かもしれないけど……」
それ以上は言葉が出なくなった彼女は、私の胸にぐっと白い衣服を押し付けた。
手にとってみると、自然に溜め息が出た。
「……これは……」

まず最初に感じたのは、その手触りの良さだ。非常に軽やかで、さらりとしている。
まるで、心地よい冷たさの清流に手を躍らせているかのように、その繊維が私の心を和ませる。
衣服の袖を持ち、目の前で広げてみる。真っ白なその生地は、初春の綿雲のような優しさを思わせる。
ホーネットが「ダサい」と言ったのは、無地で簡素なつくりだったからだろう。
日常的に着る分には十分、むしろこじゃれていると言ってもよい。
「こんな素晴しいものを、私に……?」
「その……儀式みたいなものでさ……。アラクネは婚約者に、自分の糸で作った服を贈って、それを着てもらわないと……」
「えっ、つまり……この服を着ると、私はシルキーさんと結婚……!」今度は私の顔が赤くなる番だった。
彼女と私の顔の赤さ、どちらがより赤いだろうか。いい勝負だろう。
「い、嫌ならいいのよ。そりゃアンタも人間だし、こんな足いっぱいの気持ち悪い蜘蛛女よりもっとかわいい娘がいるだろうし、
 アンタみたいないい人がアタシみたいなやつと吊り合わないし、アタシはエロいばっかりの魔物だし……むぅ?!」
シルキーは黙り込んだ。私が彼女にキスをして、唇の自由を奪ったからだ。しばらく私たちは、そのまま唇を合わせ続けた。

私はシルキーから唇を離した。
「そんなに自分を卑下しないで下さい、シルキーさん。あなたは自分が思っているより、ずっと素晴しい方です。
 それに、あなたは私のことも買いかぶり過ぎです。私はあなたが思っているほど、立派な人間じゃない。
 ただのしがないエンチャンターです。それでも、あなたが私のことを愛してくださるというのなら……」
しばしの静寂。激しくなる鼓動を落ち着かせるため、すぅっと息を吸い、吐く。
そして私は、するっと彼女の手作りの服を着た。
「シルキーさん、いや、シルキー、私と結婚しましょう」
シルキーの桃色に染まった頬に、雫がさらりと流れた。
「受け取った以上は、絶対よ」私たちは抱き合い、再び口付けをした。


そこからの記憶は、私には曖昧だ。シルキーが言うには、興奮状態にあるアラクネは、額部分の複眼から特殊な光を発するという。
その光を直視すると誘惑呪文にかけられたようになってしまい、自分が何をやっているかわからなくなるらしい。
記憶が戻ったとき、私はシルキーのたくさんの足に覆われるようにして繋がっていた。さらに所々糸が絡み付いており、
周囲の無関係な箇所にも糸が無駄撃ちされていた。
幸い、シルキーから受け取った衣服はきれいに畳まれて脇に置いてあった。無駄撃ちされた糸の被害にもあっていない。
ここからはもっぱら彼女から聞かされた説明であることを、あらかじめご了承願いたい。

彼女の複眼の光を直視した私は、不意に股間が膨らんだという。
抱き合っていた彼女にはそれがすぐわかり、彼女自身も発情してしまったらしい。
わずかに残る理性で私の衣服を脱がし――彼女は魔物としての本能を完全に取り戻した。
即座に私を押し倒し、その豊満な胸で私の顔を挟み込む。私といえば、彼女の胸の中で一心不乱に舌を動かしていたという。
よくもまぁ窒息しなかったものだ。
そして、彼女は私を胸から解放し、今度は己の秘所を私の顔に押し付け、逆に私のはしたない物を……色々したと言う。
というのも、秘所を押し付けられた私が、舐めたり噛んだり啜ったり……をしたため、彼女も何をやっていたか曖昧なのだという。
そして彼女は、散々可愛がった私のはしたない物を、濡れてトロトロになった秘所にずぶりと差し込んだ。
直後、体と体をより密着させようとして、彼女は私に激しく抱きついた。そして、彼女の足が私の体をしっかりとロックし、
昆虫の腹部的な尻尾をリズミカルに上下させた。そして、喘ぎ声に混じって、彼女の口から糸が無差別的に発射、発射、発射。
強すぎる快感が、脳の信号を誤作動させるらしい。要するに、これはアラクネが強く「感じて」いる証拠だとの事だ。
よほど快感が強かったのか、私はものの数分で果ててしまったらしい。
「すごかったわよぉ……病み上がりなのに、すっごい濃いのがいっぱい……」
彼女の話が本当なら、二人の夜の主導権はもっぱら彼女にあるように思えた。


「大丈夫、慣れれば複眼の光を見てもおかしくはならないから」シルキーはそう言いながら、お互いの体を縛り付ける糸を
唾液で溶かした。彼女ら自身の糸は、少し魔力を籠めた特殊な唾液で簡単に解ける。
私はてっきり、炎でしかアラクネの糸を除去できないと思っていた。そのことを彼女に言ったら、
「じゃあ、糸でぐるぐる巻きにした獲物をどうやって食べるのよ」と言われた。
自由になった私たちは、シルキーの案内で泉に行き、体を清めた。そして、道々食料を調達しながら、
私の当初の目的である街を目指した。


日が暮れかけた頃、私たちはようやく街に到着した。
「これが、外の世界……」シルキーの目はきらきら輝いていた。
時間が時間だけに、周囲には夕飯の仕度をするいい匂いが立ち込めていた。
子供たち――人間よりも魔物の方が多かった――は、きゃあきゃあ言いながらそれぞれの家路に急いでいた。
目の前を通り過ぎた冒険者と思しき人物は、連れのサキュバスと難しい顔をしてなにやら話をしていた。
酒場の前では、早くも酔っ払いが豪快なゲップとともに夢を貪っていた。
「こんなにたくさんの魔物と人間、初めて見たかもしれない!」シルキーはあちこち指差しては、私に色々と報告する。
「感動に浸っている場合じゃないですよ。私たちは無一文ですから、宿に泊まる前に一稼ぎしなければなりません」
私はぬいぐるみを取り出し、操り糸をつないだ。

「さぁ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい! 人形遣いのショータイムだよ!」私は大きな声で人々の注目を集め、
手拍子をして観衆を煽った。
「シルキーさん、歌える?」
「えっ、えっ? えぇっ?!」驚く彼女を尻目に、私は返事を待たずに操り糸を振るった。
「お、姉ちゃん歌うのかい?」
「いいぞ、やれやれー!」
「おっぱいおっぱい!」
「こりゃ、ぼうず!」
断るに断れない雰囲気に飲み込まれたシルキーは、「キニスン、宿では寝かさないわよ!」と耳元でささやいた。
観衆の手拍子に合わせて、シルキーは歌い始めた。彼女の作った服のように、白く柔らかな歌声だった。
歌声に合わせ、軽快に飛び跳ねるぬいぐるみ。くるくるとその場で回り、リズムよくステップを踏む。
次第に気分が乗ってきたのか、シルキーの歌が徐々に激しく、情熱的になってきた。
私もその歌にあわせ、ぬいぐるみを宙返りさせたり、ウィンドミルをさせたりと、激しくて派手な動きを繰り返した。
気がつけば、私もシルキーも踊っていた。ぬいぐるみを操る腕は止めず、しかし自分も激しく踊る。
踊りながら歌うのはつらいはずなのに、シルキーの歌声はますます美しく響く。
観衆の中にも、手拍子をしながら踊る者が現れ始めた。小さな村のお祭りのような騒ぎである。

始まりがあれば終わりは来る。シルキーの歌が遂に終わり、私はぬいぐるみとともにフィニッシュを決めた。
「いいぞー、あんちゃん! またやってくれ!」
「ぬいぐるみさーん、こっち手ぇ振って〜!」
「アラクネのお姉さん、いい歌声だったわよー」
「おっぱいおっぱい!」
「こりゃぼうず、いい加減にしないか!」
観客たちの拍手が爆発し、歓喜の声と口笛が鳴り響く。そして、二人が宿に泊まるには十分すぎるほどのお金が、
私たちに向けて投げよこされる。
「大成功ですね」シルキーの方を見ると、彼女は満足そうに頷き、未だ興奮覚め止まぬ観衆たちに手を振った。


宿屋に到着すると、私たちは早速夕食をとった。私はホウレン草のベーコン炒め、シルキーはアサリのパスタだ。
シルキーは高級なワインも注文しかけたが、既のところで安い銘柄のワインに変更させることができた。
「いいじゃん、頑張ったんだから」少し膨れた顔をして見せたが、それで首を縦に振るほど私は甘くない。
「高いお酒が飲めるほど、私たちは財布に余裕があるわけではありませんよ。
 今日の宿賃と食事代を消費したら、二日分の旅費しかありませんからね」
「いいじゃん、別に」
「よくありません。あ、ほら。料理が来たみたいですよ。おーい、こっちこっち!」
話をうまくそらし、私はシルキーと安いワインで乾杯した。
「ふぅ、お疲れ様」ワインを一口含んでから、ホウレン草を口の中に放り込む。なかなか美味しい。
「あら、安いくせに美味しいワインね! こっちで正解だったかも」シルキーはパスタそっちのけでぐびぐび飲んでいる。
「たくさん歌って踊ったから、格別に美味しいんでしょう。でも、飲みすぎないで下さいよ!」
「大丈夫よ。キニスンの分は一口残してあげるから」つまり、一口分しか残してくれないらしい。
今グラスに注がれている分のワインを大切に飲もう。
「それよりさ。いよいよ明日、逢いに行くの? キニスンのお母さん」ようやくアサリのパスタを食べ始めながら、
シルキーが私に言った。
「えぇ。情報によれば、この街の大聖堂にいるとのことです」
「美人なの?」シルキーが前に乗り出して尋ねた。少し顔が近い。
「えぇ。といっても、十年以上も前のことですが……。あ、でも魔物と人間じゃ、外見の衰える早さが違いますもんね」
「じゃあさ、アタシとキニスンのお母さん、どっちが綺麗?」ますます体を前のめりにして彼女が尋ねてきた。顔が非常に近い。
「えっ、ええっ?」突然の質問に私は困惑した――いや、彼女の顔がとても近くにあることにも困惑した。
そして、気がついた。彼女の目がとろんとしている。
「アタシよりも美人だったら……きっとアタシ……嫉妬しちゃう……」そういうが早いか、彼女の両目蓋はくっついてしまった。
「あっ、シルキーさん? シルキーさん! お、おぉっと!」彼女の顔面がパスタに衝突する寸前で、私は彼女を受け止めた。
彼女は疲労とワインによって、そのまま眠り込んでしまったのだった。
宿では寝かさない、と言っていたのはどこの誰だったか。

私は彼女をおぶって運ぼうとしたが、下半身が人間のそれとは違うためか、なかなかうまくいかない。
悪戦苦闘しているところを宿屋の主人に手伝ってもらい、何とか彼女を部屋まで運ぶことができた。
彼女をうつ伏せにしてベッドに横たえさせてから、私は窓を開け、夜風に当たった。
丁度月は半分ほど欠けていて、金色に似た光をやさしく放っていた。
どこか遠くの方で、ワーウルフの雄叫びが聞こえた。狩りにでも成功したのだろうか。
ぼんやりと虚空を見つめながら、私は母ルルララのことを思い出していた。

いつだったか、私が家に友達を数人連れてきた時、みんなに手作りのドーナッツを振舞ってくれた。
スライムのイルム――今では二児の母だ――と、ベルゼブブのココ――二ヶ月前、私に母の情報を提供してくれた張本人――が
奪い合うようにして食べてしまったので、他のみんなは一つしか食べることができなかった。
でも、それはまだマシだ。私はみんなの分の飲み物を取りに行っていたので、飲み物を持って戻ってきた時には、
ドーナッツの食べカスすら残っていなかった。動作の遅いおおなめくじのニティーカ――現在は大病院で看護師をしている――
ですら、自分の分のドーナッツがあったというのに。
「元気出せよ。オイラの分のドーナッツ、半分分けてやるからさ」
人間の友達であるスタンレー――彼は既に四年前、死亡が確認されている――が差し出した半分でさえ、
目の前でイルムに掻っ攫われてしまった。そのときのスタンレーの顔と言ったら。
いや、私の顔の方が壮絶だったかもしれない。
みんなが帰った後、そのことを母に話すと、母は笑いながら
「それじゃ、あなたも負けないくらい早食いができるようにならないとね」と言ったのだった。
早食いこそは身につかなかったが、その代わりに、自分の皿の上の食べ物を掻っ攫われるのを防ぐ技術は身についた。
にこやかな顔で相手を見て、ガツンと力いっぱいテーブルに拳を振り下ろすのだ。
もしナイフやフォークがあれば、それを同じ動作でテーブルに突き刺せばよい。

目の前を、男を足にぶらさげたワーバットが横切った。攫った男ではなく、夫らしい。
いつの間にか、月の位置が高くなっていた。これ以上の夜更かしは毒になりそうなので、私はベッドの中に潜り込むことにした。


翌朝。食パンとベーコンの簡単な朝食をとってから、私たちは宿屋を出た。
「いよいよね、キニスン」隣を歩くシルキーは、どこか緊張の面持ちである。
「あはは、シルキーさんが力む必要はないじゃないですか」私は彼女の手をとりながら、街の大聖堂の門をくぐった。

中央の裁断には、サキュバスの司祭が祈りを捧げていた。私たちの気配に気がついたのか、
彼女は祈りを途中で切り、振り返った。
「すみません、お祈りの邪魔をしてしまって。私はキニスン=ブライトンと言います。彼女は……」
「シルバーシルク、シルキーって呼んでね」……ここに来る前に、礼儀作法を教えておくべきだった。
「あなた方に神のご加護がありますように……。私はアロセール=ダーニャ、このアミリエ大聖堂の長を勤めております。
 お見受けしたところ、お二人は旅人のようですが……どのようなご用件でいらっしゃったのでしょうか」
「はい。実は、十年以上も前に別れた母が、こちらにいるとの話を聞いたのです。
 アロセール様、『足の無い聖女ルルララ』にどうか逢わせて下さい」

その言葉を聞き、アロセールは目を見開き――そして、かぶりを振った。
「いいえ、キニスンさん……ルルララ様にお会いすることは叶いません」
「何でさっ! 十年以上も昔に別れた子供が、やっとの思いで母親に逢いに来たんだよ?! 逢わせてやるのが普通でしょ?!」
今にも殴りかかりそうなシルキーを、私は片手で遮った。
「……どういう訳か、お聞かせ願えますか」
その問いにどう答えるべきか、アロセールはしばし迷ったようだった。
しかし、決心したような面持ちになると、私にその理由を述べた。

「キニスンさん……あなたのお母様、『足の無い聖女ルルララ』は……一ヶ月前に、お亡くなりになられました。
 ですので……残念ながら、お逢いすることは出来ません……」


私の時間が、停止した。


その後、アロセールの口から語られたことは、私の脳内を駆け足で通り抜けてしまって記憶に残らなかった。
いや、彼女の口から漏れてくる音に、何か意味があるのかすら理解が出来なかった。
私はしばらくそのまま、直立不動のまま動けなかった。脳が一瞬にして錆びつき、命令を出すことをやめてしまったようだった。
シルキーがしゃくり上げている様子を見て、私の脳内はようやく動き始めた。
私の脳が最初に始めたことは、先ほど私の頭を駆け足で走り去った、意味不明な音たちの解読作業だった。


一ヶ月前のある日。
足の無い聖女ルルララは、身寄りのない子供たちを連れて、街の外の丘までピクニックに訪れていた。
参加した子供たちの半数は魔物で、年齢もせいぜい五歳くらいの幼子だ。
ルルララの他の大人は、人間の女性が二人とハーピーが一人。10:00頃に出発し、日が沈むまでに町に戻る予定だった。
日が傾き、そろそろ街に帰ろうとしたところで、事件が発生した。
魔物討伐派の狩人数名に、幼い魔物の子供たちが襲われたのである。
急いでルルララが魔法を駆使して足止めをし、他の三人の大人がが子供たちを集め、人数を確認する。
ハーピーの点呼で、全員が揃ったことが確認できた……ように思えた。

「待ちやがれ、魔物! こいつがどうなってもいいのか!」勝ち誇ったような男の声が轟く。
彼の左手に乗ったものを見て、ルルララの表情が凍りついた。
「マミィ……たす……けて……!」
「しゃべんじゃねえ、生首! テメェは人質だ、黙ってろ!」
男の左手には、幼女の頭部が乗っていた。
他の三人の大人も、驚愕の表情でその光景を見る。今にも飛び出しそうになる首なしの胴体を、ハーピーが泣きながら引き止めた。
彼女は首と胴体が分離した魔物、デュラハンなのだ。

「この生首の魔物を無事に返してほしけりゃ、エキドナ、テメェの首と交換だ」
そう言われたルルララは、躊躇することなく首を差し出したという。ルルララの首が切り落とされた直後、
討伐派の狩人たちは次々と倒れていった。ルルララが、死ぬ直前に何らかの呪文を試みたのだろうと言われている。


とにかく、それが母の死の全貌だった。
母らしいといえば母らしい最期である。

全てを理解し終えた時、ようやく私は涙を流した。そして、その場で膝を付いて頭を垂れ、母のために祈った。
「母さん……。あなたの息子キニスンが、今あなたの元に帰りました。
 私たちが離れ離れになってから長い年月が過ぎましたが、あなたは他の地でも、誰かの母である道を選んだのですね。
 温かで優しい母の道……そんな母に育てられた私は、その事をとても誇りに思います。
 ただ惜しむらくは、生きているうちに再びお目にかかることができなかったことです。
 できれば、私の妻となる女性の姿と、私のぬいぐるみのダンスを見ていただきたかった……。
 母さん……」

できれば、私はこのまま綺麗に祈ってから去りたかった。
しかし、いくら自分を騙して脳を誤魔化しても、感情だけは誤魔化せない。
素直な感情が、私を激しい慟哭の渦に身を投げさせ、思うが侭に私の口を動かした。

「何故死んでしまったのです、母さん……!」


ステンドグラスから、やわらかな光が降り注いだ。
その光はなぜか、私に何かを訴えかけているように思えた。


「私のことを母さんと呼ぶのは、誰……?」

声が響く。フフフ、どうやら遂に私は気が違ってしまったのか。聞こえるはずのない声が聞こえる。
――いや、それにしてはおかしい。シルキーやアロセールにも、この声が聞こえたらしい。二人は驚いて、周囲を見回している。

「あなたなの? そこにいるの? お願いキニスン、返事をして!」
もう間違いようがない。ステンドグラスの差す光の方から、とても懐かしくて忘れられない、一番大切な人の声が聞こえた。
私は顔を上げ、ステンドグラスにむかって叫んだ。
「私はここです、母さん!」
その瞬間、ステンドグラスからの光が爆発的に増した。
周囲一面が、やわらかな光に支配される。私はあまりの光に、目を開けることができなかった。


光の爆発が去ると、辺りに平穏が戻った。
ステンドグラスからは、相変わらずやわらかな光。しかし、そこにはうっすらと影があった。
「やっと……逢えた……」

ステンドグラスの後光に照らされて、ルルララは私の前に現れた。
彼女の足は、ない――種族的な意味ではない。蛇の胴体すらないのだ。
さらに、彼女の体は透けている。向こう側のステンドグラスがぼやけているが、判別は難しくない。
「奇跡……おお、神よ……」アロセールが涙を流して祈っている。シルキーといえば、目の前の光景が信じられずぽかんとしている。
私の母ルルララは、ゴースト――魂だけの存在となって、私の元に現れたのだ。

「キニスン……我が子よ、息子よ……!」ルルララが腕を大きく広げ、私をいざなう。
「母さん……本当に母さんなんですね……!」私は母に抱きついた。儚げに見えるその姿は、
腕がすり抜けることもなくしっかりと抱くことが出来た。昔と変わらない、優しく温かな母の香りがする。
「ただいま、母さん……」
「おかえり、キニスン……」


その後、ルルララ復活の知らせは瞬く間に街中に広まり、その翌日には魔物共存派の各地に大々的に知らせが及んだ。
後日専門家から話を聞いたところ、非常に高い魔力と清く純粋な心をもつ個体が死亡した後、
生前強い縁のあった、同じく清く純粋な心の持ち主の強い呼びかけに反応し、魂がこの世に戻ってくることがあるらしい。
また、ゴーストは無生物には触れることができないが、生物には触れることができるらしい。
私が母を抱くことができたのも、そういう理由らしい。
「よく覚えておきたまえ、君」私にゴーストの理論を教えてくれた男は、最後にこう付け加えた。
「ルルララ様がこの世に転生できたのは、君がルルララ様を深く愛していたからだ。
 愛がなければ、死者の魂は戻ってこない。無理に死者の魂を呼び戻したりしたら、魂が理性を失い、暴走してしまうからね」
愛。私は母を愛せていた。これはその証明なのだろうか。

母が言うには、魂だけの存在となってあの世を彷徨っていると、突然周囲から光が消えたのだという。
死後の世界のことはよくわからないが、そこは常に光に溢れた場所だということだろうか?
突如暗闇に投げ出された母の元に、やがてどこからともなく声が聞こえてきた。声のする方向を探し、手探りで進もうとする。
すると、手に何か軽やかなものが触れた。手に取ると、それはとても細い銀色の糸だった。
真っ暗な闇の中、その微かに光り輝く銀の糸は、母にとっては十分すぎるほどはっきりとした道しるべとなった。
糸を手繰るようにして、母は声のする方へと進む。次第に声がはっきりし、手繰る糸も輝きを増していった。
そして、一際眩しく糸が光り輝いたかと思うと、この世に逆戻りしていたというのだ。
「ほう、それは興味深い」私の話を聞いた男は、全く表情を変えずにそう言った。
「実に興味深い。私も転生して実証してみたいものだ。しかし、私はゴーストになれるほど高い魔力と清い心は持っていない。
 転生できずにそのまま永遠にあの世行きだろうな」
何故そこまで自分に冷酷なことが言えるのだろう。私はそう思いながら、彼の出してくれたコーヒーを啜った。

次に、私たちのことも話さねばなるまい。
私とシルキーは、その数日後にアミリエ大聖堂にて挙式した。アラクネ用のウエディングドレスに身を包んだシルキーは、
世界中の誰よりも美しく、眩く輝いて見えた。
母といえば、その大聖堂にちゃっかり住み着いてしまっている。元々ここで寝泊りをしていたらしいが、迷惑ではないのだろうか?
そのことをアロセールに謝ろうとしたところ、逆に頭を下げられてしまった。
「むしろ、こちらからもお頼みしようと思っておりましたので……」
「そういうことなの、キニスン。何も心配いらないわよ」

シルキーは、母から私の幼少時代の事を洗いざらい全て聞いたらしい。
「キニスゥ〜ン、『デビルバグがわっさわっさ』〜♪」
「!!!」
「うふふっ、キニスンのそんな顔、アタシ初めて見たわ♪」
母は、私の幼少時代のトラウマまで話してしまったらしい。
勃つわけのないものを半日以上吸われ、その間「おっぱい地獄」なるものを施された私は、
デビルバグだけはどうしようもなく苦手なのである。
「大丈夫よ、キニスン。アタシがずーっと一緒にいるから、デビルバグなんかに渡さないわよ」
その言葉は頼もしいのだが、「守る」と称して私と性交するつもりではないのだろうか?
「デビルバグたちに見せ付けてやるんですか?」私はかまをかけてみた。
「そうよ! アタシの愛は、デビルバグの入り込む余地もないわよ!」
さて、私はどうツッコミを入れればいいのか。


「もう行ってしまうのね、キニスン」旅支度を済ませた私とシルキーに、母が街の門まで見送りに来た。
「えぇ、またしばらくは戻ってきません。旅芸人ですからね」
「心配しないで、お義母さん。キニスンには立派な妻がいるんだから」
「うふふ、そうね。シルキーさん、この子をどうかお願いね」
「母さん、いつまでも子供扱いして……」
「あら、いつまで経っても子供はかわいらしいものよ。キニスンも子供ができたらわかるわよ」母は意味ありげな視線を
シルキーに送った。
「よろしくお願いね、シルキーさん。元気な孫の顔が見たいわ」
「任せて!」何を結託しているんだ、この二人は。
「あぁ、キニスン。旅立つ前にこれを」母は私の手を取り、中に何かを握らせた。
手を開くと、そこには一枚の鱗があった。
「それは、私の体の一部よ。あなたが苦しい時、辛い時、絶望した時……これを見て、母さんを思い出してね。
 母さんはいつでもそばにいて、力になってあげるわ」
「母さん……」私は母の鱗を握り締めた。軽く薄いその鱗は、不思議な温かさが感じられた。
「……なんてね。本当は、母さんがキニスンと一緒にいたいからなの。ダメね、母さん。
 息子は立派に親離れしたのに、私はべったり甘えたいなんて」母は泣き笑いの表情で、私とシルキーの手を握った。
「さぁ、別れが辛いのはみんな同じ。でも、いつまでも先延ばしにできるものじゃないわ。
 キニスン、行ってらっしゃい。世界中の人間と魔物のために」
私は母の鱗を服の胸ポケット――数日前にシルキーが新たに作ったものだ――に入れた。
「ありがとう、母さん。それじゃ、行ってくるよ」
「次にお会いする時は、キニスンとアタシの愛の結晶も一緒よ〜!」
シルキーの余計な一言で、感動の別れのシーンはお笑いくさくなってしまった。


「いいお母さんだったわね」街を離れて数時間後、不意にシルキーが口を開いた。
「えぇ。私が誇りに思う、世界一の母親です」
「あー、何だかアタシは心配だよ。アタシ、あんなに立派なお母さんになれそうにないしさ……」
「まだ生まれてもないのに、何言ってるんですか。それに、立派かどうかよりも重要なことがありますよ」
私は自分にも言い聞かせるようにして、シルキーに言った。
「やがて産まれて来るであろう我が子に、どれだけ愛情をもって接してやれるか。子供を愛すること以上に、
 子育てで重要なことはありません。その子がやがて大人になったときに、自分の母親を世界一だと思えば、
 それだけで大成功、立派なお母さんですよ」

そう。注ぎ込んだ分の倍になって、愛は返ってくる。母の転生が、それを実証してくれた。
まだ見ぬ私とシルキーの間の子にも、愛をたくさん注ぎ込もう。
子供の笑顔は、私たちが注ぎ込んだ愛の倍以上に眩く輝き、私たちに愛を返してくれるはずだ。


糸物語 fin

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