ケンタウロス被害報告書
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「そうですか……お悔やみ申し上げます」私はハーピーの姉妹に頭を下げた。
「いえ、気になさらないで下さい。母さんは最後は苦しまずに死にました。
 私たちは、それが何よりもの救いです」姉のハーピーが言う。
「どうせなら、母さんのお墓に寄って行ってくださるかしら。母さん、きっと喜ぶと思うの」
「案内しますわ、キニスンさん」私は姉妹に導かれるままに、ハンナの墓へとむかった。


「どうだった?」シルキーの問いに、私は無言で首を振る。
「そう……。残念だったわね」
「ええ……。でも、仕方がないといえば仕方がないですから。ハンナ婆さんは、当時の村で一番年寄りのハーピー
 でしたから。もし生きていたとしても、寝たきりで話ができない可能性の方が大きかったでしょう」
私は村人の名簿を取り出し、ハンナの死亡確認と、死因を書き記した。つまり、老衰だ。
「どのくらいの消息がつかめたの?」その問いに、私はちょっと顔をしかめる。パラパラと名簿をめくり、
空白の欄の数を数えた。
「およそ半分弱、60人ほどでしょうか」
「生きているのは……?」
「その半数ほどでしょうか……」
「そう……」シルキーの顔が陰る。

「ちょっとその名簿、見せてもらってもいいかしら」そういうが早いか、彼女は私の名簿を取り上げた。
見られてやましいものではないが、やはりあまり他の人には見られたくないものだ。
「カトレーダ、人間……死亡確認……このマークの意味は?」シルキーは名簿の×印を示した。
「そのマークが死因の箇所に書かれている場合、魔物討伐派にやられたという意味です」
「ふぅん……×印、いっぱいね」そう、多くの村人は魔物討伐派によって殺された。
「マクノートン、人間……この人も×印で死んでる。ロメラ、リザードマン……やっぱり×印。
 よく心が折れないわね、キニスン。アタシだったら鬱になるかも」
「いえ、何度も折れてますよ、私も」
「嘘ぉ、じゃなんでまだ続けられるわけ? 普通、塞ぎこんでやめちゃうわよ」
「そうでしょうか? でも、生きていることが確認できたら、とても嬉しいじゃないですか」
「ポジティブねぇ、キニスンは」そういうところがまた可愛いんだけどね、と付け加えながら、
シルキーはページをめくった。
「コニー、ワーキャット……死因は病死、か。討伐派に殺されるよりマシだけど、病気も辛いわよね」
病死は、討伐派による殺害の次に最も多い。というより、それら以外のケースがあまりに少なすぎる。
今回のハンナのように老衰で死ぬのは、私にとって初めてのケースだ。
「どんどん憂鬱になるわ。生きてる村人は出てこないのかしら」シルキーはまたページをめくる。
「あ、この人は生きてる! サンドラ、ミミック……え、市場に売りに出されてた?
 ちょっと、これ大丈夫なの? 絶対やばいってば!」
「大丈夫ですよ、サンドラは危険なとき、すぐに中身だけテレポートして別の箱に移動しますから。
 一度でも生存が確認できれば、その後のことをあまり心配せずとも大丈夫です。
 だから、私の頭に爪を立てるのをやめてください」
「あ、ゴメンゴメン」シルキーは慌てて私の頭を解放した。まだちょっと後頭部付近が痛い。
「レオーネ、アルラウネ……え、アルラウネ? どうやって逃げたのよ、この人」
「植木鉢にローラーをつければ、アルラウネは上半身の自由が利くので移動可能ですよ」もっとも、このような
手段をとってまでして動きたがるアルラウネは少ないが。
「へぇ。で、生存確認。現在は密林でハニービーやドリアードたちと共存しているわけね」
私がレオーネに飼育されかけたことだけは伏せて、私は頷いた。
「それから、キッド、人間……現在は共存派の領主の元で働いている。真面目ねぇ」
それは嘘だ。キッドはだらけ癖のある人間なので、しょっちゅう仕事をサボっている。
「で、カルトス……何これ、変なマークがしてある」シルキーは水滴の形をした印を指差した。
「あぁ、カルトス……彼は、討伐派に下ったんです。魔物と共存することをやめ、
 討伐派の地で生きることを決心したのです」
「なんてひどいやつ。こいつ外道だわ」
「そうあからさまに彼の決断を否定しないであげてください。何しろ、彼女の妻はつぼまじんだったのですから」
「ならなおさら……!」
「シルキー!」思わず声を荒げた私に、彼女はびくりと身じろぎした。そういえば、彼女の事を「さん」付けで
呼ばなくなったのは、いつのことだっただろうか。
「カルトスだって、苦渋の決断だったのです。彼は討伐派の人間に妻共々捕らえられ、異端審問にかけられました。
 そして、中央司祭に死刑を言い渡されました――ただし、妻の壷を割れば助ける、という条件付きで」
私は名簿をシルキーの手に持たせたままめくり、ショコラに関する項目を開いた。
「『ショコラ、つぼまじん。死亡確認。夫の命を救うため、自らの壷を差し出した』……ショコラの死を無駄に
 したくはないでしょう? カルトスは今、ショコラを偲んでか、壷の工房で働いているそうです」
居心地の悪い沈黙のあと、シルキーは小さく「ゴメン」と言った。そして、再び名簿を読む。


「……みんな、大変なのね」シルキーがポツリと漏らした。
「こうしてこの名簿を見てると、アタシが無事に今日まで生きてこられたことが奇跡みたいに思えるわ」
と、シルキーは私の顔を見て、訂正する。
「あぁ、アタシなんかよりも、キニスンの方がよっぽどすごいね。共存派で、村人の消息を追っかけてあちこち
 飛び回ってるんだもんねぇ。死にかけたこともあったんでしょ?」
「えぇ、しょっちゅう死にかけてます。それはつまり、食べ物に関する問題ですが」
シルキーはぽかんとした顔になった。
「争い事から身を守る術は、十分身につけています。そういう方面で命の危険を感じたことは、今のところ
 ありませんね。討伐派の領地に行く時は、少し変装して偽名を名乗ればいいだけですし。でも、食べ物に
 関する事だけは、どうしようもありません。傀儡術のウケが悪ければ収入はありませんし、物価が高い領地
 では買い物に苦労しますし。野営中に食べ物が盗まれたりする事もあります」
事実、シルキーと出会う前はホーネットの群れに食料が奪われたし、それ以前にもベルゼブブやラージマウス、
デビルバグ、ブラックハーピーといった魔物に食料が奪われたことがある。人間の盗賊やゴブリンならなんとか
なるが、つまみ食いや窃盗に特化した魔物相手では、どうにもならない。
「キニスンって、案外マヌケね」彼女の言葉は、さすがにぐさっときた。


翌日には、私たちは再び旅立った。行く当ては特にないが、情報を集めないことにはどうにもならない。
あてずっぽうに村や町を転々とし、名簿にある人物・魔物に関する情報を集める。
気の遠くなるような作業であることは理解している。しかし、それ以外の方法は存在しない。
おそらく、行方不明者のほとんどは死んでいるのだろう。だが、生存者発見の確率はゼロではない。

ハンナの死亡確認から、およそ十日ほどが経っただろうか。私たちは、北東地域の大草原にいた。
最初こそはシルキーも感激していたが、数時間もすると飽きてしまったらしい。
「キニスン、ホントにそっちで大丈夫なの?」果てのない緑色の大海原を突き進むうちに、シルキーが不安がった。
一見道なき道を行っているように見えるが、草原には草原の道がある。僅かに草が低くなっている箇所が、
草原の唯一の道だ。もっとも、日がだいぶ傾いてきた今となっては、それを探るのも容易なことではない。
「大丈夫、しばらく真っ直ぐ進めば、草原の民の集落の一つや二つに簡単にぶつかるはずです」
そういう私の言葉には、確証はない。草原の民は、言ってしまえば遊牧民だ。一定の場所で定住しないので、
同じ場所を異なる時期に訪れても、草原の民に必ず会えるというわけではない。
ただ、草原の民も一定の場所を周期的に移動するため、ある程度の場所を覚えておけば、
集落と遭遇できる可能性が高くなる。
「あっ、ホントだ。煙が上がってる」シルキーが指差す先には、幾筋かの煙が立ち上っていた。
「さぁ、そうとわかれば進みましょう。できれば、夕飯をご厄介になりたいものです」

しかし、私たちの夕食は取り上げになってしまった。
辿り着いた先にあったのは、壊滅状態の草原の民の集落だったためだ。


「これは……! どういうことなのキニスン、一体ここで何があったの?」困惑するシルキーに、
私は黙って首を横に振る。今までで初めての経験だった。私が知る限りでは、草原の民は内輪揉めのような
無意味な争いはしない。そうなれば、外部からの敵……集落の規模や壊滅度から考えても、組織的な集団が
大人数を率いて襲い掛かったと見て間違いない。導き出される敵の正体は、私には一つしか思いつかない。
討伐派の仕業と見て間違いはなさそうだ。しかし、納得がいかない。何故、今まで放置して、ほぼ容認状態だった
草原の民に、今さら攻撃を仕掛けてきたのだろうか?
「ともかく……被害状況から見ても、襲撃を受けたのはごく最近と見てもよさそうです。周囲に生存者か、
 襲撃者の残党がいるかもしれません。詳しく調べてみましょう」
私とシルキーは、手分けして集落の残骸を調べた。

私の方は、大した成果はあげられなかった。一方シルキーは、ひどく緊迫した様子で私の名前を呼んだ。
意識を失って倒れている草原の民を、見つけたというのだ。
「こっちよ、キニスン」シルキーに導かれ、私は気を失っている草原の民に歩み寄った。
草原の民独特の模様をあしらった衣服、羽飾りつきのバンダナ。長いポニーテールは、健康的な茶色だ。
そして、下半身……こちらは、人間のそれではない。馬のものだ。髪と同じ、健康的な茶色の毛をしている。
そう、草原の民とは、ケンタウロスの群れのことである。

蹄に蹄鉄が打ってないところを見ると、まだ成人してないらしい。しかし、体のほうはほぼ成熟しきっている。
おそらく成人間近だったのだろう。彼女の手には、真新しい槍が握られていた。
私は彼女のそばにかがみこみ、体を調べた。馬の下半身には目立った外傷はなかったが、頭部には何かで殴られた
痕跡が見つかった。
「頭を強く打って倒れたようです。シルキー、薬はありますか?」
私はまず彼女の傷を水で洗い、消毒液で消毒した。怪我にしみたのか、彼女は小さくうめくような声を出した。
「あっ、気がつい……」
「まだ治療中です、シルキー。今目覚めてもらうと、適切な処置が施せません」
目覚めた瞬間に、彼女が私を襲う可能性もないわけではない。ケンタウロスは見た目以上に脆い理性をしている。
私は傷薬を塗り、包帯を巻いた。これで、ひとまず安心だろう。私は彼女を起こさないよう、静かに後ずさりした。
「あとは、彼女が自発的に目を覚ますのを待つだけですね」


その日の夜、ケンタウロスは目を覚ました。
私たちといえば、丁度晩御飯を作っている最中だった。
「……うっ」彼女は怪我をした頭を押さえた。
「まだ病み上がりなんだから、無理しないで下さい」私は火をいじりながら言った。
「お前たちは……そうだ、みんなは!」ふらつきながらも、彼女は立ち上がろうとする。
「こーら、ダメって言ってるじゃない! アンタ、頭ぶつけて気を失ってたのよ?」シルキーが慌てて座らせる。
「そう……なのか……」彼女は静かに座った。
「さぁ、出来上がりました。まずは食べて、体に栄養を与えないと」私は五穀粥を椀に入れ、差し出した。
彼女は黙ってそれを受け取り、ふんふんと鼻を鳴らした。
「毒は入ってないようだな」そう言いながら、彼女は少しだけ五穀粥を啜った。
「なっ、アンタ失礼ね! 何でわざわざ助けておいて毒殺する必要があんのよ! 殺すんだったら、アンタが
 気絶してる時に既にやってるわ!」
「まぁまぁ、シルキーも落ち着いて……」私はシルキーの分も椀に注ぎ、彼女に差し出した。

食事をしていくらか落ち着きを取り戻したのを確認すると、私はようやく話を切り出した。
「申し遅れました。私はキニスン=ブライトン。方々で旅をしながら芸を見せる傀儡術師(エンチャンター)です。
 彼女は私の妻でシルバーシルク、通称シルキーです。見てのとおり、アラクネです」
「そうか。私はパトリシアだ」パトリシアは椀の中の粥を一気に飲み干し、口を拭った。
「ところで、パトリシアさん。この集落を襲ったのは……?」途端に、彼女の表情が険しくなる。
「突然のことでな……おそらく討伐派の連中だと思うのだが……それにしてはどうも腑に落ちないところがある」
「腑に落ちない?」
「ああ。おそらく討伐派の正規軍なのだが……戦い方がどうもむちゃくちゃだ」
「むちゃくちゃ?」確かにそれはおかしい。規律の取れた正規軍であれば、戦い方に乱れが生じるはずがない。
「やたらめったら武器を振り回し、大声を上げながら笑うのだ。目が血走っているものもいたな。
 あれは狂気とでも言うのだろうか? 我らが反撃をしても、全く怯みやしない……。
 体を切り付けられたり、矢が刺さったりしても、まるで痛がる気配がない。さすがの我々も、
 生きたものを相手にしている心地がしなかった……。認めたくはないが、あいつらは怖かった」
「なるほど……」
パトリシアの情報で、私は瞬時に答えを導き出した。
「それは、間違いなく狂戦士(ベルセルク)化でしょうね」


狂戦士。
一般的には「バーサーカー」と呼ばれるが、正式には「ベルセルク」と呼ばれる。
神話伝承によれば、「神が人間に獣の魂を憑依させ、野獣的な強さを与えられた者たち」のことを言う。
しかしその実体は、ある種の魔法使いが、強い魔力によって人間をマインドコントロールしただけに過ぎない。
術者は、対象に対して強い殺戮衝動を刷り込ませ、痛点感覚を麻痺、もしくは破壊することによって痛みを感じ
なくさせるのだ。そして、己の限界を超える力で、文字通り「狂ったように」戦う。
肉体を著しく精神が凌駕した状態になるのだ。
しかし、それも長くは持続しない。己の体のリミッターを外して暴れまわった戦士たちは、
急激な体力の消耗に体がついていけず、恐ろしい速さで老化現象が始まる。
最終的には、己の体すら支えられぬようなもろい骨と、その骨に張り付いているだけにしか見えない皮だけの
姿と成り果て、死ぬ。
故に、この術は「禁術」とされ、遙か昔に封印された。
ある意味では、「失われた魔術(ロストマジック)」の一つである。

しかし、その埋もれた技術を再び現代に呼び戻し、術をかけることができる者が現れたとしたら?


「狂戦士……。それであいつらはあんなにも暴れまわっていたのか……」パトリシアは暗い顔のまま火を見つめた。
「そんな……あんまりじゃない。むごすぎるよ」シルキーも暗い顔で火を見つめる。
「問題は、そのような技術を呼び戻し、悪用した者が何者なのか……それが問題ではないでしょうか。
 遅かれ早かれ、そうなるとは思いますが……この禁術を使い、戦争や共存派の殲滅などに悪用されたら、
 それこそオシマイです……最悪の結末です」
気まずい沈黙の中、ぱちぱちと火のはぜる音だけが楽しげに響いていた。私たちには、その音がどこか別の次元
から聞こえてくる音のように、全く異質なものに聞こえた。もっと別の機会――私とシルキーが当初予定し
ていた、草原の民との夕食兼宴会――ならば、火の動きを真似てぬいぐるみを乱舞させていたかもしれない。

「これからどうするの?」沈黙を破ったのは、シルキーの不安に押し潰された声だった。
私もパトリシアも、その声を聞いた。しかし、何も聞こえなかったかのように無反応のまま、じっと火を見つめる。
シルキーの問いかける前から、私も考えている。いや、シルキーは私にいったのではなく、パトリシアに言ったの
かもしれない。そんなことはどうだっていい。当のパトリシアでさえ、答えを見つけてはいないのだから。
結局、シルキーの問いは闇の虚空に消えていった。時間だけが経過していき、いつしか睡魔が訪れた。
「……寝ますか。とりあえず」誰も何も言わなかったが、無言で賛成した。私は火を消した。


翌朝。
何かを振り回すような音で目が覚めた私は、寝ぼけ眼で周囲を見回した。
そして――見た。朝日がきらきらと輝く方向に、槍の稽古をするパトリシア――裸だ。
「ハァッ!」空中で槍を薙ぎ、その動作の流れでこちらをくるりと振り向く。その瞬間、パトリシアの長い
ポニーテールと、振り払われるようにして飛んだ彼女の汗、彼女の熱意に満ちた眼、しなやかな馬の毛並み、
そして……大草原で育まれた、豊かに実った……しかし、まだまだ成長するであろう彼女の柔らかな胸……
それらが一斉に、朝日に照らされて輝いた。

美しい。
私は単純にそう思った。

だがその直後、私は彼女と目が合ってしまう。一瞬の後に、彼女は視線を胸に下ろす。
私は遅いとはわかっていながらも、慌てて視線をあさっての方向へ向ける。顔を背ける瞬間、目の端に
パトリシアが赤面するような表情が見えた気がする。

「……」
「……」

気まずい沈黙。私は目を背けたままなので、すぐに首が痛くなった。
それからどれだけ時間が経過しただろうか。一瞬が半刻……いや、永遠にも近い時間に感じる。
こういう状況になると、時間の概念はまるで役に立たない。沈黙を破ったのは、パトリシアのほうだった。
「見た……のか、キニスン」
「その……何を、でしょうか」私は目を背けたまま答える。
「今のだ……今の私を」
「つまり……槍術の稽古をするパトリシアさんを、という事ですか?」
「それも込みで……その……私のだな……」これ以上彼女に言わせるのは酷だ。
「……胸……ですか」彼女からは返答がない。しかし、黙っていてもそうだとわかる。
「……答えたら、どうなりますか」
「……わからん。そ、そなたの答え次第だ。だが、だんまりはなしだ。必ず答えろ」
あえて言おう。どう答えろと。
「答えなければ……そなたの喉笛を一突きさせてもらう。五秒以内に答えよ。五……四……」
考えている暇はなさそうだ。私は正直に白状した。
「その……見えてしまいました……」
カウントダウンが止まる。それと同時に、時間まで止まってしまったかのような感覚に陥る。私は今でも、
顔を背けたままだ。

「……」
「……」

「あの、」今度は私から沈黙を破った。
「そろそろ首が痛くなってきたので……その、顔を背けるの、やめていいでしょうか」
「あ……す、すまない……少し待ってくれないか」パトリシアが慌ててパカパカする音が聞こえた。
おそらく、衣服を着て胸を隠しているのだろう。やがてその音は乱れがなくなり、ゆっくりこちらに近づいてきた。
「待たせたな……もう顔を戻してもいいぞ」
パトリシアの声で、私はやれやれと首を元に戻し――。



ぼいん。

「……」



おかしい。
何かが根本的におかしい。私は目を瞑った。おかしいおかしいおかしい。
目を開ける。



ぼいん。

「……」



いや、やはり見た光景は変わらず。いやいや、おかしいおかしい。それはおかしすぎる。
第一、目を開いた瞬間の擬音語からしておかしい。そしてその直後、私の脳内に送られてきた映像もおかしい。
おおよそこれは、目を開いた瞬間の映像としては、ありえない種類のものであることは間違いない……。


説明する。
今現在、私キニスン=ブライトンの目の前にあるのは、
二つの大きな乳房――おそらくパトリシアのもの――である。


「その……パトリシアさん? これはどういう……」半分も言い終わらないうちに、私は突如彼女の腕に頭を
抱えられ、私の顔はそのまま二つの饅頭の間にバフッとゴールイン……。
彼女の胸の中は、草原の風に似た柔らかさがあった。そして両サイドから、健康的な温かさが……。
いや、何を言っているのだ、私は。
「ふぁごりふぃあふぁん……もへふぁふぉーふゅーふぉふぉふぇふか?」
胸に押さえつけられているためか、うまく話せない。本当に何を言っているのだ、私は。
それでも、パトリシアには意味が通じたらしい。
「その……朝からはしたないものを見せてしまって……本当に申し訳なく思っている……だから、その……
 責任を取らないと……だから……」
彼女の胸の音が聞こえる。早い。とても気分が高揚している証拠だ。
だが、これで「責任」というのは話が突飛過ぎる。
「だ、だからキニスン……しばらく私の胸に、めいいっぱい甘えてはくれないか……」
再確認するようだが、話が突飛過ぎる。人間の理解の範疇を超えている。……いや、彼女は魔物だったか。

とそこへ。
「う、うぅ〜ん……」
ビクリ、と私とパトリシアは同時に同じ一点に顔を向ける。そこには、たった今目をこすりながら目覚めた我が妻、
シルキーの姿が……。

「ん」シルキーがゴシゴシ目をこすり、私たちを見る。

「ん」ゴシゴシ。

「ん」ぱちくり。

「……」一瞬が永遠に感じるような、気まずい沈黙。私からこの静寂をくずす勇気は、ない。


「キニスン」私の体がどんどん凍り付いていく。シルキーの目が、キラーンと輝いて見えた。
「これはどういうことかしら? しっかり説明してもらうわよ」



数分後、私は目をバッテンにさせ、シルキーの糸にぐるぐる巻きにされた状態でシルキーに引っ張られていた。
「でもねぇパトリシアちゃん、そういうのは責任とか感じなくていいのよ? この場合はキニスンが悪いんだから。
 ま、逆に『責任を取れ』っていうんなら話はわかるわよ? そのときはアタシが容赦しないけど」ズリズリズリ。
「す、すまない……気が動転していたというか……キニスンが妻帯者であることをすっかり……」ズリズリズリ。
「ま、過ぎたことを気にしてもしょうがないわ。キニスンだって許してくれてるみたいだし」ズリズリズリ。
私が許したというより、シルキーが許したのではないだろうか。相変わらず目はバッテンのまま、私はそう思った。


シルキーに引きずられながらも、私たちは確実にパトリシアたちの群れの後を追っていた。
草を踏み荒らしたような後がはっきりしていたので、追跡は容易だった。
しばらくしてシルキーが引っ張るのに疲れ、私はようやく解放された。さらに数分後、私たちはパトリシアの仲間
の群れに合流することができた。
群れのケンタウロスたちの被害は大きく、重傷者も少なくなかった。死者がいなかったことがせめてもの救いだが、
いずれにせよ危機的状況であることには変わりがない。
不意に、パトリシアが顔を輝かせ、ある一点目掛けて走っていく。その先には、長い髪を振り乱したケンタウロス
が一人。パトリシアは彼女の胸に飛び込み、抱きつかれた彼女も驚きと幸福感の入り混じった表情で抱き返す。
そして、パトリシアが片手で私たちのほうを指差す。程なくして、二人のケンタウロスは私たちに駆け寄ってきた。
「旅のお方、我が娘パトリシアを助けてくれてありがとうございます。私がこの群れの族長をしております、
 パトリシアの母、パルテノアと申します。本当に、何と言ってよいことやら……」
電流が流れたかのように、私はその名前に反応する。……パルテノア。種族、ケンタウロス……。もしや。
パルテノアも私の挙動を敏感に感じ取ったのか、私を調べるような目で見た。そして、それが驚きの表情に変わる。
「まさか……パルテノア=ヒューイですか? 私です! ルルララの息子、キニスンです!」
「キニスン?! キニスン=ブライトンね!! あぁ、また会えるなんて!」

パルテノア。
私がかつて住んでいた村に、突然移り住んできたケンタウロスである。
武人である彼女は初めこそ村人に不審がられたが、気さくな性格ですぐに私たちと打ち解けた。
そしてその後、度重なる討伐派の襲撃から村を守り、いつしか私たちの村にはなくてはならない人物となった。
そんな彼女でも、私たちの村が最後に受けた襲撃だけは防ぎきれなかった。
パルテノアの名前と武勲は、村の消滅とともに消えていった……。

「そう、キニスンもこんなに大きくなったのね! おまけに結婚もしたなんて。いいお嫁さんもらったじゃないの」
「パルテノアさんこそ、ケンタウロスの長だなんて! すごいじゃないですか!」
「何いってるのよ、私の腕っ節は知ってるでしょ? いつだって優れた能力を持つ者が指導者となるのよ」
懐かしい気持ちに浸りながら、私たちは互いのこれまでの話を交換した。
放浪の末にこの群れに辿り着いたこと、腕っ節を買われて群れの警護を任されたこと、
男を捕まえて子供を生んだこと(草原の民として暮らすケンタウロスには、結婚の概念がない。彼女らがこの言葉を
知っているのは、異文化の知識的なものでしかない)、警備隊長から族長へと出世したこと。
そして、突然襲い掛かってきた謎の軍勢の話に及んだ。
運の悪いことに、彼女たちは食事時の無防備な時間帯に襲撃を受けたらしい。
慌ててこれらを迎え撃つも、敵襲の異様な戦闘力に怖気づいてしまい、彼女らは屈辱の敗走を余儀なくされた。
「あの紋章はこの辺の領主のものではないな。おそらくジャグロックかその周辺の地域だろう。わずかだが、
 まともなセリフの中に訛りが聞こえた」
「ジャグロック領……。これまた遠路はるばると」

ジャグロック領。
名前の通り、ジャグロック家が統治する土地である。現領主はトブホー=ジャグロック、討伐派ではあるものの、
それほど積極的に討伐運動を行っているわけでもない。
この草原地帯から南西の方角、族に「エルフの聖域」と呼ばれる大樹海を抜けたさらにその先に、
ジャグロック領は存在する。基本的に人間だけの領地だが、領地の端の方には俗に言う「野生エルフ」と呼ばれる
「ブラウネスティエルフ」が生息している。
エルフに関する説明は、また別の機会にさせてもらおう。

「しかし、ますます附に落ちませんね。これまでジャグロック家は、それほど活発に魔物の討伐運動をしたわけ
 でもありませんし。かといって、ジャグロック家は共存派でもない。私にはさっぱりわからない……」
続いて、私からの報告だ。
狂戦士化の話には、やはりパルテノアも強い興味を示した。それが「失われた魔術」と知り、パルテノアは
ひどく戸惑ったようだった。
「ありえない。ジャグロック家に大した魔法使いがいないことは、あなたも知ってるわよね? まして『失われ
 た魔術』ともなると、それこそ数える程度の魔法使いしか……。ジャグロック家にそんな魔法使い、絶対に
 いないわ」
ここまで言ってしまうとジャグロック家がかわいそうな気もするが、これは事実である。
反面、ジャグロック家は武術に力を入れていることでも有名である。

「ううん……さっぱりわからない。これはいっそ、現地に行って詳しく調べてみる必要が……」
私が渋面でそう言った時、甲高い角笛の音が聞こえた。瞬時に慌しくなる周囲。ほとんどの者は、武器を片手に
次々と立ち上がる。その意味を、私は次の一言で知る。

「敵襲!」


ものの数分で、辺りは修羅場と化した。パルテノアの言ったとおり、襲撃者たちはジャグロック家の紋章を纏い、
暴虐武人の限りを尽くした。その暴れっぷりを体感し、私は彼らが完全に狂戦士化していることを確信した。
私はといえば、ぬいぐるみを駆使して戦っていた。殺しは私の本分ではないが、現状ではそんな綺麗事などは
言えない。殺さなければ、痛みを感じぬ狂戦士たちは止まらない。私はせめてもの慈悲として、一瞬で楽になれる
ように手加減なしで、魔力の傀儡糸で狂戦士の首を絞め、斬り、刎ね飛ばした。
残酷なようかもしれないが、傀儡術とは元来暗殺の技である。遠くから人形を操り、糸を敵に絡ませ、殺す。
傀儡術師にとって、人形と糸は暗器である。
シルキーといえば、口から糸の塊を無数に吐き、狂戦士たちに浴びせていた。狙いは正確で、多くの狂戦士たちは
足や腕の自由を奪われた。動けなくなった狂戦士たちは、即座にケンタウロスたちに殺されるか、見境なく暴れる
他の狂戦士に殺された。だが、それでもマシな方だ。徐々に魔物としての凶暴性を取り戻してきたシルキーは、
次第に敵の動きを止めるだけでは物足りなくなったらしい。顔面を直接的に狙い、視界と呼吸の自由を奪い、
苦しませながら殺すようになった。
後でこのことについて言及したら、むすっとした顔で「昔のことを思い出した」と言われた。
ケンタウロスたちは、槍を打ち振るって戦っていた。この混戦状態の中、弓矢は同士討ちの危険性があるためだ。
それに、至近距離の敵には槍を使う必要はない。蹄鉄の打った蹄で蹴飛ばすか踏みつければよいのだ。

どれだけの時間が経過しただろうか。
いや、どれだけの狂戦士を殺しただろうか。
とにかく、敵の戦力も残りわずかとなり、戦闘も終局を迎えようとしていた。
私もシルキーも、他のケンタウロスたちも、怪我はあるが皆生きている。
敵の狂戦士といえば、既に数名ほどが立っているに過ぎなかった。相変わらず支離滅裂な叫び声を上げ、
むちゃくちゃな勢いで武器を振り回す。
と、一人が振り回していた斧が手からすっぽ抜けた。斧はゆるやかな放物線を描き、私の方へと飛んできた。
もはや刃から逃れることができないと覚悟した瞬間、私は猛烈な勢いの馬の足音を耳に聞き――

「キニスン、危ない!!」


衝撃音とうめき声が聞こえるのは、その一瞬後のことだった。



狂戦士の放った斧は、パルテノアの腹部をざっくりと斬り開いていた。
傷口は深くて広い。素人目にも、一目で致命傷とわかる傷だ。
私といえば、そのパルテノアに突き飛ばされ、彼女のすぐ隣に横たわっている。
「母上……嫌……!」そう呼びかけるパトリシアの声も、母の死は逃れられないことを理解しているようだった。
パルテノアの眼からは、生命の光が徐々に消えていくのが見てとれた。
「すまないね、パトリシアや……母さん、あんたが立派に成人するのを見たかったんだけど……
 もう無理みたいね……ごめんなさいね……」
「何で……パルテノアさん……!」私はそう呟くのがやっとだった。
「あぁ、キニスン……当たり前じゃない……私たちケンタウロスは、仔馬の命を何よりも尊ぶのよ……」
そういえばそうだった。彼女が村の守護に名乗りを上げたときも、
「未来ある仔馬の命を守るのは、ケンタウロスとして最大の武勲だ」などと言っていた。
彼女にとって、私はいつまで経っても「仔馬」らしい。
「あぁ、目が見えなくなってきた……。パトリシア、キニスン、どこにいるの?! お前たちの顔が見えない!」
今際に私の名? 私は聞き違いかと思った。しかし、パトリシアが私の腕を引っ張り、パルテノアの左手に添え
させると、その手は私の腕を痛いほどにしっかりと握り締めた。
「この手はキニスンだね。そして、今私の右手を握っているのがパトリシア……見えなくてもわかるわ。
 キニスンはあの村の時の……パトリシアはこの部族の時の……大事な我が子だった……」
パルテノアが咳き込み、血を吐いた。
「もう何も言わないで下さい、パルテノアさん……!」しかし、私の懇願を無視して、パルテノアは語り続ける。
「大丈夫だから、キニスン……。パトリシア……少し早いけど……成人式の贈り物……あげるわ……。
 私の……弓……。受け取り……なさい……」
パルテノアは超人的な力を振り絞り、パトリシアに手を握られたまま、背中の屋筒と弓を取ると、パトリシアに
押し付けた。
「母上、この弓は……!」
「黙って……受け取り……なさい……!」そのただならぬ声に怖気づいたのか、パトリシアは黙って矢筒と弓を
受け取った。それを確認すると、パルテノアは安らかな表情になった。
「あぁ……ここには……キニスンも……パトリシアも……みんなもいる……カトレーダ、コニー、ケリー、スターム
 ……ハンナ婆さんもいる……あぁ、待ってみんな……今すぐそっちへ……」

私の腕を握っていた手が、ぱたりと崩れ落ちた。
パルテノア=ヒューイは、私の目の前で死んだ。

パルテノア、ケンタウロス 死亡確認 ×



族長の葬儀は、非常に質素に慎ましく行われた。
その後で、全滅した狂戦士たちをまとめて埋葬しなければならなかったからだ。
その数、およそ100。私には、その数倍以上の軍勢と戦っていたような気がしてならなかった。

「もう行ってしまわれるのか」背中に母の形見の矢筒と弓を背負い、パトリシアは見送りにやってきた。
「ええ。どうやら、事は一刻を争う事体のようです。今回の襲撃は、ほんの始まりに過ぎないのかもしれない。
 可能な限り早いうちに手を打たなければ、きっと大変なことになるでしょう……」
「そうか……どうかご無事で」そうは言いつつも、パトリシアはまだ何か言いたげに、もじもじとしている。
「じゃあね、頑張りなさいよ!」空気の読めないシルキーの所為で、私は出発を余儀なくされた。
私が「それでは」と言いかけたとき、「あの!」とパトリシアの声が響いた。
「キニスン……その……どうか、私と義兄妹の誓いを交わしてくれぬか……? 母上は……そなたを……」
彼女の言わんとしたいことはわかった。私が村時代の子供で、パトリシアが草原の部族時代の子供ならば、
私たちは血が繋がっていなくても兄妹のようなものだ、ということだろう。
「いいのですか? 私のような人間が兄で……」
「あら、いいじゃないキニスン! アンタにもかわいい妹が出来るのよ。『お兄ちゃーん』って言って抱きしめて
 くれるのよ? なっちゃいなさいよ、キニスン!」
シルキーは確実に何かを間違えている。第一、パトリシアには草原の民としての生活がある。
旅烏である私には、抱いてもらえるような機会はほとんどない。断るのが、もっとも賢い選択肢だろう。
だが私は、口を開きかけてから言葉を飲み込んだ。彼女の目を見て、私には断ることなどできそうにないことが
わかったためだ。――あぁ、この子は真剣なんだ、と。
「いいでしょう、今日からあなたは、私の妹です。しかしパトリシア……私はそう何度もこの草原を訪れることが
 できないかもしれない。それでも耐えられますね?」
「勿論ですとも、兄上」兄上、か。彼女らしいな、と思いながら、私はパトリシアとしっかりと握手をした。

「さらば兄上。また逢える日をお待ちしています」
パトリシアは形見の弓を矢を番えずに引き、ぱしゅんと空矢を鳴らした。
それは、草原の民が行う、親しい者への別れの儀式だ。弓のない私は、ただ彼女に手を振ることしかできなかった。


「なーんだ、妹になりたいって言うくらいだから、旅について来るんだと思ったわ」南西へと進みながら、
シルキーは言った。
「そうはいきませんよ、シルキー。彼女には族長の娘として、やるべきことがたくさんあるでしょうから。
 彼女は草原の民、草原こそが彼女の家です。彼女がいるべき場所を取り上げてしまうのは、かわいそうなこと
 ではないでしょうか?」
「じゃ、キニスンはどうなの? キニスンのいるべき場所って?」
私は少し考え込んでから、こう答えた。
「私は旅芸人ですから、多分、人々に笑顔が必要な場所だと思います。私はこの傀儡術を、皆の笑顔のために
 使うと誓ったんです。この世界の全ての生きとし生ける者全てが、争うことなく笑顔で生きていけるように
 なったら、私は傀儡術師をやめて、どこかに定住してのんびり暮らすつもりです。勿論、その前に行方不明
 の村人を全員見つけ出してみせますよ」

はたから見れば、到底無謀なことかもしれない。
しかし、私はそうは思わない。根拠のない自信にもかかわらず、不思議と私は不安を覚えた事はない。
「そー。ちなみにアタシのいる場所は、キニスンの心の中よ♪」
私の話なんて、はなから聞いてなかったに違いない。彼女は私の肩に頭をもたれさせ、すりすりと甘えてきた。
私はやれやれといった具合に溜め息をして、彼女の肩を抱き寄せた。
ひとまず日が沈むまで、今日はこのまま歩き続けよう。歩きにくくても気にしない。
目指すはジャグロック領。私たちは、南西へと歩き続ける。
その行く手には、大樹海「エルフの聖域」が待ち構えている。


弓物語 fin

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