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                    僕が生まれ育った所は、都会から遠くはなれた静かな村だった。 
家には母も兄弟も無く、家族はただ一人の父があるだけだったが、特に生活に不自由することも無かった。 
ただひとつ、悩みがあるとすれば……僕の体のことだった。 
小さなころから僕は成長が遅かった。背も周りの同い年の子供たちよりずっと低く、年下の子にも抜かれる始末だった。 
いつまでも子供のような背丈、そして荒々しい風貌の父とは似ても似つかぬ、まるで少女のような顔つきの僕はからかわれることも少なくなかった。 
そのたびに僕は父にどうして皆のように背が伸びないのか、どうしたら皆と同じになるのか問い詰めたものだった。 
そんな僕に対し父はいつも、ちょっと困ったような表情を浮かべ「気にすることは無い」といって決まって僕を撫でるのだった。 
 
何年かが過ぎ……同い年の子供達が成長し、若者となって村の外へ出て行くようになっても僕はまだ、幼い子供の姿のままだった。 
幸い、村人達は僕のことを不思議だと思いつつも特に詮索も、奇異の目で見ることも無かった。 
しかし僕は、いくらなんでもこれは普通ではないと考えるようになっていた。 
けれども、なんとなく父親にそのことを聞くのははばかられ、ずっと疑問が心には漂っていた……。。 
 
それからまた月日は流れ、ようやく僕も若者らしい姿へと成長した。その後数年間は村で年老いた親と共に暮らしていたが、 
父が亡くなったのをきっかけに、僕もこの村を出ることにした。 
 
父が亡くなるその少し前のある日、僕に小さな指輪を渡し、こう言った。 
「もう、私も長くは無いだろうから……。今のうちに話しておく。 
お前の体について、私から話してやることは、できないが……。 
もし、自分のことについて知りたかったら……この指輪を持って、西の海の町へ行きなさい。 
きっと、お前の知りたいことを教えてくれる人がいるはずだ……」 
そういって、父は最後に僕のことをとても大切に思っているといいながら昔のように頭を撫でてくれた。 
 
村を出ての一人旅、その全てが僕にとって初の体験ばかりだった。 
不慣れゆえのトラブルもあったものの、約2週間ほどの旅路の後、何とか僕は目的の町へたどり着いた。 
潮風が頬をなで、遠くに潮騒が聞こえる。あちこちに海産物を売る店があったり、漁の道具を手入れする人がいて育った村とはまるで違う空気に少し戸惑う。 
父はこの町へ行けと言っていたが、具体的な場所も、人の名も教えてくれなかった。 
後手がかりがあるとすればこの指輪だが…… 
そう思い、改めて僕の左手の指にはまったリングを見つめる。 
この町で作られたのだろうか? 美しい珊瑚を高度な技術で加工した指輪だ。 
その装飾加工の精緻さは、まるで人の手で創られたのではないような気さえしてくる。 
まあ、そう焦ることもないだろう。すぐに手がかりが見つかるとは思っていなかったし。 
そう考え、僕は街中をぶらぶらと散歩することにした。 
 
歩き回るうち、やたらと人魚をモチーフにした絵や看板があることに気付いた。 
不思議に思って人に聞いてみたところ、どうやらこの港町の近くには昔から人魚がすんでいるらしい。 
今はその姿を実際に見かけることは少なくなったようだが、ときどき夜に美しい歌声が海のほうから聞こえてくるという。 
冷静に考えれば、海に近い町によくある伝承の類なのであろうが……何故か僕はその話に強く興味を惹かれ、 
その人魚の話について詳しく教えてくれと町の住人や漁師達に聞いて回っていた。 
 
漁師や町の人々に人魚について聞いてまわりなんとか集めた情報によると、 
人魚の歌声は満月の夜に町の外れの海岸あたりから聞こえてくるらしい。 
幸運なことに、僕がこの町についたその次の晩が満月の夜。 
宿の主人に言付け、月が中天に差し掛かったころ、僕は宿を抜け、人々が寝静まった町に出かけることにした。 
昼間の活気とはうって変わって、町はひっそりとしている。夜も遅いせいか通りには人影は無く、家々の灯りもほとんど消えている。 
正直な所、あんな噂話を当てにして本当に人魚に出会えるのか、半信半疑ではあった。 
町外れが近くなる。建物の切れ目から海が見え、満月の光を海面が照り返しまばゆく輝いている。 
ここから後数分も歩けば件の場所のはずだが……今のところ人魚の姿など影も形もありはしない。 
やはりただの与太話だったのか、軽く失望を覚えながら足を返し宿へ戻ろうかとしたそのとき、微かだが聞こえた気がした。 
 
――歌声が。 
 
かすか、だが確かに聞こえる美しいメロディ。まるでその歌声に導かれるように、僕は足を進める。 
建物がの姿が消え、道も荒れたものになっていく。だが海が近くなるにつれて、次第に僕の耳によりはっきりと誰かの歌声が聞こえてきた。 
まるでその歌声に導かれるように、僕は足を進め、 
気がつくと、人がほとんど訪れることも無いような岸壁と岩場に囲まれた小さな岩場にやってきていた。 
いつの間にか歌声は消えている。先ほどの声の主を探そうと僕はあちこちを見回し…… 
 
足を滑らせた。 
 
暗くて良く分からなかったが、どうやら岩場が斜めになっている部分があったらしい。 
さらに悪いことにはこのあたり砂浜のようになだらかではなく、急に深くなっているようだった。 
しかし、突然水中に落ち込んだ僕はパニック状態になり、そういったことを考える余裕も無くただがむしゃらに手足をばたつかせることしか出来なかった。 
もともと運動も得意だったわけではなく、必死の抵抗もむなしく、僕はどんどん沈んでいく。 
息が苦しい。体がいたい。恐怖と焦りで考えもまとまらない。視界も、どんどん暗く…… 
こんな所で、何も分からないまま死ぬのか? そんなむなしさと悔しさで涙ににじんだ視界に、一瞬美しい少女が映ったように見えた。 
 
「……がふッ!…ごほ、げほ!ごほ…ごほッ!…」 
気管に入った水を吐き出そうとして、激しく咳き込む。体が重いのは、服がずぶぬれのせいだけではあるまい。 
しかし、僕は……生きているのか? ここは、どこなんだ? いや、それよりも誰が助けてくれたんだ? あんな時間に、あんな場所に人がいるはずが……。 
 
「あ、気がつかれましたか? ……よかった……」 
突然可愛らしい声が響き、僕は驚いて身を起こそうとする。次の瞬間、全身に激痛が走り、僕はうめいてまた体を横たえた。 
「ああ! まだ無理しちゃダメですよ。でも大きな怪我はありませんから、しばらく横になっていればすぐよくなりますわ」 
その声には僕のことを心底心配している響きがあった。うなずいて力を抜き、声の主を探して首だけを左右に動かす。 
どうやら僕が寝かせられているのは、先ほどの岩場から陰になっていた小さな砂浜のようだ。 
首を海側に向ける。沖合いには小さな岩が波間から突き出ており、 
その岩のベンチに僕の方を向いて腰掛けるようにして、一人の少女が不安げな表情をみせていた。 
 
どう言い表したらいいのだろう。僕はそれほど多くの女性を見てきたわけではないが、今まで出会った女性の誰よりも美しい。 
海の色をそのまま写し取ったような蒼い髪と瞳。 
夜の闇の中、月光をうけて煌く彼女はまるで少女の姿をした至高の芸術品のようでさえあった。 
その姿を見た瞬間、あまりの衝撃にまるで僕の時が止まってしまったかのようだったのだから。 
僕の驚いた顔を見て、彼女はもう大丈夫と安心したのか、僕に背を向け再び先ほどの歌を歌い始めた。 
辺りに美しい旋律が流れる。背後に聞こえる波の音すら、彼女の歌の一部のようだ。 
 
どれくらいそうしていただろう。彼女の歌が終わるまで、僕はずっとその場に立ち尽くしていた。 
やがて、彼女はゆっくりと振り返り、僕をまっすぐに見つめると優しく微笑んだ。 
「また、お会いできましたね……」 
いろいろなことがいっぺんに起こりすぎて、今はじめて気がついたのだが……彼女の腰から下は髪と同じ、綺麗な蒼い鱗に覆われた魚のものだった。 
そこではじめて、僕は探し求めていた人魚に出会ったことを知った。 
……不思議と、驚きは無かった。 
 
「よいしょ、っと」 
てっきり、人魚は人を避けるものだと思っていたが、彼女は僕のいる砂浜の方まで泳いでくると、近くの岩場に上がり腰を下ろした。 
「こっちの方が話しやすいでしょう?」 
確かに、さっきまでの岩場だと話しづらい。その心遣いはありがたいのだが。 
「あ〜、何笑ってるんです?」 
さっきまで神秘的とすら言える歌を奏でていたのと同じ声で、「よいしょ」ってねえ。可愛らしくて自然と笑いが漏れてしまう。 
「失礼ですわ! 命の恩人に向かって!」 
ぷりぷりと怒り出してしまった。これは確かにこちらが悪い。顔を引き締め謝る。 
「ごめんごめん。でも命の恩人って、やっぱりさっきは貴女が助けてくれたんですね? ありがとう」 
もちろん御礼も忘れない。 
「お礼なんていいですわ。あんなところで貴方に死なれては、ヴァレリーとニナに申し訳がありませんもの」 
「! その、名前……! それに、さっき『また会った』って……!?」 
ヴァレリー、ニナ。それは亡くなった父と、母の名前だ。どうしてこの目の前の人魚の少女が知っているのだろう。 
そんな僕の疑問を見透かすように彼女は微笑み、口を開いた。 
「ええ、あの二人のことならよく知っていますわ。もちろん、貴方のこともね……イオ=シルヴィア」 
僕の名前まで、目の前の人魚はずっと以前から知っていたような口ぶりで答える。 
絶句する僕の様子を見て、彼女はどこか寂しそうな表情を浮かべながらぽつりぽつりと話し始めた。 
「その様子だと、最後までヴァレリーは約束を守ったのですね。 
 大方、貴方は自分のことを知りたくて、この町に来たのでしょう?」 
その言葉に僕はこくりと頷く。 
「うん、父さんはこの町にそれを教えてくれる人がいるからって。」 
「それが、私のことですわ。挨拶が遅れましたね。私はテティス。ご覧の通り、人魚です。 
 貴方の両親、ヴァレリーやニナとは彼らが子供のころからの知り合いですの」 
ぱちゃ、と尾びれがしぶきを上げる。 
 
テティスはまるで昨日のことのように、しかし遠い昔の記憶を呼び起こすように話し出した。 
「怪我をして打ち上げられていた私を見つけた二人は、大人たちに内緒で助けてくれました。 
 それから、私たちはしばしばこの岩場で会うようになったのです。 
 私は二人を友のように、弟妹のように、子供のように想い、見守ってきました。 
 彼らが成長し、互いに惹かれあい、結ばれて……イオ、貴方が生まれる所もちゃんと」 
「……」 
なんだか恥ずかしくなる。自分の知らない親屋や自分の事を聞かされるのは。 
「ですが、ニナは産後、病に罹り……。 
 治らない病気でもない、私ならすぐにでも治せる病だったのに……。 
 そのときの私は、他の人間に見つかることが恐ろしくて、あの子を助けて上げられませんでした。 
 ヴァレリーはなんども、気にするなと言ってくれましたが……。 
 だから私はそのとき、彼と約束したんです。」 
「約束?」 
さっき言っていた、父さんが守ったっていう約束のことなのだろうか? 
何故だか僕には確信があった。それこそが、僕の疑問に答えてくれるものだと。 
「どんな、約束だったの……?」 
辛い記憶に耐えるように、テティスはうつむいた。夜の暗さもあってどんな表情をしているのかは分からない。 
「二人の子供、イオに命の危機が迫った時、どんな手を使っても助ける、と。 
 ただし、そのことは誰にも、イオ自身にも知らせてはならない、と。 
 ……それから半年後、流行り病にかかった貴方を連れてヴァレリーがやって来ましたわ。 
 そして私は約束に従い貴方の命を救ったのです……」 
そこまで聞いて、不意に僕の全身を悪寒が通り抜ける。ずっと聞きたかったことなのに、ずっと知りたかったことなのに、 
何故だか聞いてはいけないような気がする。それを知ったら、以前の僕には戻れないような気がして。 
「まって、待ってよ……命を救ったって、どうやって……? ま、まさか……!?」 
不意に町で聞いた噂話を思い出す。人魚の血肉に不老不死を求めた王の話。人魚を肉を探す冒険者が町に来たことがあると言う話。 
どちらの話も、結局人魚を見つけることは出来なかったと聞いたが。 
「流行り病ぐらいなら、私の血でなくとも治せるものなのだけど、まだ幼い貴方は、死ぬ寸前だった。 
貴方を助けるためには、私は血を飲ませるしか無かった。 
その後も、貴方の体調が完全に回復するまでは、お乳のほかに血を飲ませるしかなかった。 
結果、貴方は助かったのだけど……」 
そこまでで言葉を切り、数瞬、押し黙っていた彼女だったが、意を決したように顔を上げ、僕の目を見つめて語った。 
「貴方の体は私たち人魚に非常に近くなってしまった。もしかしたらその少女のような見た目も、多少私の影響があるのかもしれないですわ。 
貴方も知っている通り、その体の成長はとてもゆっくりとしたものになった。 
多分、それ以上成長や老化することは無いでしょうね。おそらく、寿命も人間のそれよりもはるかに長く、私たちと同じになったはずです。」 
 
「ごめん、なさい……」 
ぽつり、と彼女の目から涙が一粒こぼれる。 
「結局、私のわがままだったのですわ。 ニナを助けられなかった無力な自分がイヤで、ヴァレリーに必要とされたくて、 
 自分の小さな満足のために、貴方をこんな体にして! 
 ごめんなさい……ごめんなさい……!」 
目の前で美しい顔を悲しみと後悔に歪め、心を引き裂くような悲しげな声で懺悔を繰り返すテティス。 
その様子を見た僕はいてもたっていられず、彼女を抱きしめた。 
「もういい、もういいんです!」 
そして、先ほどの彼女と同じようにまっすぐに瞳を見つめる。 
「確かに、昔はこの体のことでからかわれたり、嫌な思いをしたこともありました。 
けれども、それはテティス、貴女が僕の命を助けてくれたからです! 
たとえそれが貴女の罪悪感からのものだとしても、僕はあなたに助けられた。 
それだけは、嘘偽り無い信実なんだ!」 
僕の言葉に彼女の涙が止まる。 
「私を、許してくださるんですか? 貴方に、ひどいことをしたのに……」 
僕は大きく頷き、彼女を安心させようと、できる限りの優しい顔と声で言葉を紡ぐ。 
「もちろんです! というよりも、僕ははじめから貴女に感謝すべきだったんですから! 
だから、もう泣かないで。」 
「ありがとう……。貴方みたいな人ばかりだったら、私ももっと早く、あの人たちと一緒に暮らせたんでしょうね。」 
そうして、僕たちはどちらからともなく、口付けを交わした。 
まるでそうすることが自然な流れであったように。そうすることが彼女の罪を許し、彼に許されるために必要であったかのように。 
どれだけそうしていたのだろう。数秒か、数分か、それとも数時間か。名残惜しそうに口を離す。つ……と唾液の端が月光に煌いた。 
「キス……しちゃったね」 
「うん……イオ、上手……。本当は私のほうが年上なのに……」 
きっと僕の顔は真っ赤になっているんだろう。目の前の彼女も真っ赤だし、なにより自分の頬から今にも火を噴きそうに顔が熱いから分かる。 
「いいの?」 
「いいって……何が?」 
「私みたいな魔物と、こういうことをすることがですわ。もし、他に好きな方がいるのでしたら……」 
ここまでしたのに、そういって身を引こうとする彼女。きっと、ずっと昔から……もしかしたら、父さんとの間でもこんなことを考えていたんだろう。 
だめだ、彼女を逃がしたくない。今はっきりと分かった。僕は自分の体ことを知りたかったんじゃない。 
それよりも、幼い頃の、おぼろげにかすむ記憶の中の彼女にもう一度会いたくてこの町にきたんだ。 
いま、彼女が腕の中にいる。もう二度と、 二度と離さない! 
「そんなこと、ちっとも気にしないし、関係もない! 
命の恩人とか、人間と人魚とか関係なく、僕は……僕はテティス、貴女が好きなんだ! 
この命が終わるまでずっと……一緒にいたい、側にいて欲しい!」 
この胸の想いが全て伝わればいいと、僕は彼女に叫ぶ。 
最初は戸惑っていた様子の彼女だったが、僕の言葉を理解すると共にまた、涙が溢れてきた。 
 
――今度は悲しみではなく。喜びのために。 
 
そうして月が二人を優しく照らし、波の音だけが周囲に響くなか、僕たちはずっと抱き合っていた。 
幸運なことに、僕たちの命は同じくらい長い。 
ずっとずうっとこうしていられる。 
そう……もしかしたら……全ては僕たちが結ばれるための運命として決まっていたのではないか? 
父と母がテティスと出会ったのも。僕の命を彼女が助けたことも。そして、また僕がこの町を訪れ、彼女と再会したことも。 
いつの日か、僕も彼女もその命を終える日が来るのだろう。 
それまでは、ここでこうして歌い続けよう。 
 
――歌声が、波間に夢と消えるまで―― 
 
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・ 
・ 
「ねえ、詩人のおにいちゃん。そのおにいちゃんとにんぎょのおねえちゃんはどうなったの?」 
「けっこんしたの?」 
「きっとけっこんしたよ! いいなあ。あたしもすてきなおよめさんになりたーい」 
「さあ……どうだろうね? うん、でもね……きっと幸せになったよ。 
ほら、この物語はこれでおしまいだよ。もう日が暮れる。みんなおうちにおかえり。」 
「はーい、詩人さん、またおはなしきかせてね!」 
詩人の周りを囲んでいた子供達がその輪を崩し、それぞれの家に帰ろうと駆け出す。 
その様子を優しく見つめていた、若い詩人はハープをケースにしまい、周囲の様子を懐かしそうに見つめる。 
「ノスタルジー、感じてたの?」 
詩人の背後から少女が声をかける。海の色と同じ青い髪と瞳の少女。長いスカートには魚の鱗のような紋様が描かれている。 
詩人のどこか何かを懐かしむ表情と同じように、少女もまた同じような表情を浮かべていた。 
「仕方ないよ。この町に帰ってくるのも……久しぶりなんだから。 
そっちだって、そんな気分だから故郷の海に泳ぎにいったんじゃないのかい?」 
「イオ」「テティス」 
 
――歌声は、波間にまだ響いている―― 
                  
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