リザードマン被害報告書
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「淫らな魔力を〜振りまいて〜♪ お料理〜片手に〜おっ洗濯ぅ〜♪」
 どこからか調子はずれな鼻歌が流れてくる、平和なフリスアリス家の昼下がり。広大な面
積を誇る庭は芽吹いたばかりのような鮮やかな緑で覆われている。さらにその敷地にはよく
手入れされた木々がバランスを考え整然と植えられていて、所々にアクセントとして置かれ
た彫像や石で作られたオブジェがそれらの緑と調和し、美しく見事な庭園を作り出していた。

 その広い芝生の上で、一人の少女が身の丈ほどもある大剣を軽々と振り回していた。彼女
の眼差しは見た目の年齢にそぐわない鋭さを持ち、真剣そのもので、表情も凛々しく引き締
められていたが、柔らかな頬のラインにまだ幼さが残るのが見て取れる。しなやかではある
がまだまだ女性としては未成熟な体は、年相応の少女らしい衣服を纏っている。その上から
若草色の軽量の胸当て、具足、篭手を身につけた彼女は、言うならば「少女剣士」といった
風貌を示していた。
「やぁっ!」
 下段に構えた剣が斬り上げられたかと思うと、すかさず振り下ろされ、周囲の木々を剣風
が揺らす。少女の動きはそれだけでは止まらず、剣の勢いを殺すことなくまるで舞うかのよ
うに軽やかに踏み込み、右薙ぎ、左薙ぎと刃が流れた。彼女が舞い、剣が閃くたびに穏やか
に降り注ぐ陽光を受けて、白銀の刃が眩しく輝く。
「…………」
 そして練武を続ける彼女からやや離れたところには、一人の男の姿があった。派手になら
ない程度の装飾で決して華美ではないが、生地などから上物と分かる衣服を纏った金髪の青
年は真剣な面持ちで、剣と舞う少女の動きを見つめている。
 先ほどから自分をじっと見つめる彼の存在、向けられる視線にはまるで注意を払うことも
なく、少女は一心不乱に剣舞を続けていた。彼女が動くたびに風が巻き起こり、草や木々の
葉を揺らし、さわさわという音を奏でる。
 風の演奏にあわせるかのように、彼女の動きは鋭さを増していった。
「はっ!」
 最後に大きく踏み込んで全身の力を剣にのせた突きを繰り出した少女は、しばらくそのま
まの姿勢で微動だにせず、時間が止まったかのようにぴたりと静止する。その姿には完成さ
れた一枚の絵画のような美しさがあった。だが絵とは違い、時折穏やかに通り過ぎる風だけ
が、少女の前髪をふわりと持ち上げ、たなびかせている。
 しばしの静寂。やがて彼女は全身から力を抜き、剣を下ろすとふうっと長い息をついた。
その様子に、先ほどから彼女の鍛錬を見守っていた傍らの青年が彼女に声を掛ける。
「ほらリズ、そうやってすぐ気を抜かない。実戦、真剣勝負の場ではそういう最後の瞬間の
油断が一番危ないし、それに鍛錬をした後に動きを急に止めると、自分の体にとってもよく
ないよ」
「はい、すみません先生!」
 弟子を厳しく注意するというよりも、教え子に優しく諭す教師のような青年の声に対して、
リズと呼ばれた少女はくるりと振り向きながらよく通る声で返事をした。その拍子にスカー
トのすそから、緑色の鱗で覆われた尻尾がぴょこんと飛び出す。注意してよく見れば、その
スカートから覗く尻尾と、顔の横、人間で言う耳の辺りに見える緑色のひれのような物体も
一風変わったアクセサリーではなく、直接肌から「生えている」もの、つまり彼女の体の一
部だと気付くだろう。
 そう、リズという名の少女は人間ではなく――魔物。その中でもトカゲの特徴を持ったリ
ザードマンと呼ばれる亜人種なのである。まだ幼い少女の姿にもかかわらず、先ほどのよう
に身の丈ほどもある両手剣を軽々と振り回せるのも、人より腕力や体力に優れた魔物だから
こそなせる業である。同様に、先ほどの剣舞で見せた練達の剣士の動きも魔物の彼女ならで
はの芸当であった。もちろん、彼女自身の技量の高さも理由ではあるが。
「カーライル先生! さっきの動き、どうでしたか?」
 少女は腕を振って持っていた大剣を大きく上に放り投げ、中空で回転しながら刃を下に落
ちてきた剣を器用に背の鞘にしまう。評価を求めるリズはどこか照れくさそうではあったが
それ以上に青年から見た自分の力量、その答えが気になるのか、彼女は小走りに彼の元に駆
けて行き、コーチの言葉をじっと待つ。
 彼女の姿を鍛錬の開始からずっと見守っていた、カーライルと呼ばれた青年は一つ小さく
頷くと、傍らにやってきた少女と顔の高さをあわせるようにしゃがみこむ。そして、しっか
りと彼女の目を見ながら口を開いた。
「うん、いいね。いろいろ、上手くなった。僕が教えた剣術の動きは、もう大体覚えたみた
いだしね。あれだけ自然に出来れば合格点かな。後は自分なりに上手く動きを体に馴染ませ
て、とっさの時でも自然に出すことが出来るようになるまで繰り返し練習すること」
 カーライルの言葉をリズは真剣な表情で頷きながら聞き、心に刻み込む。そこで青年は一
度言葉を切ると、肩の力を抜いて続けた。
「しかし、この短期間でここまでしっかり習得するとはね。流石は剣術道場の跡取り娘さん、
ということかな」
 優しく笑顔を浮かべ、リズの剣技を褒めるカーライルの言葉にえへ、とはにかむ少女。先
ほどまでの凛々しく引き締められた表情とは違って、今は彼女の顔には年相応の可愛らしい
笑顔が浮かんでいた。

「お疲れ様です、カーライル様、リズちゃん。お茶を用意しましたから、少し休憩してはい
かがですか?」
 不意にかけられた声に二人が視線を向けると、屋敷からお茶の入ったポットとお菓子の載
ったトレイを持った女性――カーライルの妻、カテリナがこちらにやってくるのが見えた。
どうやら先ほどまで修練中の彼らのためにクッキーを焼いていたらしい。風に乗って香ばし
い香りが二人の所まで流れて、運動で小腹を空かした彼らの食欲を誘う。
「わ、すごい! ……先生!」
 二人の側までやってきたカテリナに近づき、トレイの上のお菓子を見たリズが、期待に満
ちた表情で傍らのカーライルに声をかける。少女の言葉に青年も笑みを浮かべ、頷いた。
「そうだね、せっかくのお茶とお菓子が冷めてしまってはカテリナ様にも申し訳ない。ちょ
っと休憩するとしようか」
 青年は優しい笑顔を浮かべたまま、早く早くと急かさんばかりに目を輝かせる少女と、自
らの妻の方に向かって歩き出した。

「みっだらなわた〜しは〜みっだら〜なわた〜しは〜、じゅりあさ〜ん♪」
 そうして、遠くに聞こえる変な歌をBGMに、芝生に広げられたシートの上で3人によるささ
やかなお茶会がしばしの間、開かれることとなった。



 何故、修行の旅を続け各地を渡り歩くリザードマンの少女であるリズが、フリスアリス家
で修行をしているのか。そして何故カーライルが彼女に先生と呼ばれているのか。
 その理由を語るには、一週間ほど時が遡る。

――――――――――――――

 深き森を貫く一本の街道。多くの旅人や商人に踏みしめられたその道を、一人の小柄な影
が歩いている。たまたまなのか、その人物以外には道の上に人影は存在せず、森の中という
ことも相まって、その光景はどことなく不気味さを漂わせていた。
 フードつきのマントで頭まですっぽりと覆い、背には背嚢と、身の丈ほどもある大きな剣
の鞘が紐で留められていた。かなりの重量であろうにも関わらず、人影はまるで荷物の重さ
を感じさせない足取りで歩みを進めている。
 だが不意に、一定のペースを保って進められていたその足が止まる。鋭い視線で前方を睨
んでいた人物の口から、長い溜息が漏れた。
「また、ですか?」
 そう呟く声は若いと言うよりはまだ幼い少女のものだった。フードをばさりと脱ぐと、そ
の声相応の可愛らしい顔が現れた。その耳の辺りからは緑色のひれのような物が生えており、
よくみればその瞳も人間のものとは少々異なっている。だが、それを差し引いても十分彼女
の顔立ちは愛らしいものと言えた。しかし、その可愛らしい顔に浮かべる表情はどこか浮か
ない。
「……いい加減にしてください。貴方では私に勝てないと、もうとっくに分かっているでし
ょう?」
 げんなりと、呆れたように眼前の空間に少女は声をかける。その視線の先には、先ほど視
界にリズが捉えられてから彼女の姿をじっと見つめる人影があった。
 その人物の風貌は、このような森の中には場違いといえるほどであった。いや、というよ
りもそもそもこうした場所に出てくるような格好ではない姿の10代後半の男。
 傷一つ無いぴかぴかの白銀鎧に、刺繍の施された豪奢な真っ赤なマントは王都の貴族が儀
礼の場で身につけるような高級なもの。そして髪は明るい金色で、戦士や冒険者はおろか、
普通の町人とさえもとても思えないような真っ白な肌は力強さとは無縁だ。顔の造作は整っ
ており、そこそこ女性の目は引きそうなのだが、ニヤニヤとした笑みのせいか、どこか全体
的に軽薄な雰囲気が漂っている。その人物は、リズの呆れ声にきざな笑みを作ると自信満々
で言葉を返した。
「そんなことないさぁ〜。今日こそキミを打ち破ってみせるよ、お嬢さん。そしてその暁に
は、このボク、デュニック=ライントードのものとしてキミを迎え入れるのさ」
 デュニックと名乗った男は、大仰な身振りでマントを翻し一礼すると、彼女の方に手を伸
ばす。その動きにはどことなく演技臭さはあったが、身につけたものから、彼がどこぞの貴
族の息子であろうことは用意に窺えた。
 だが、リズはそんなものに何の感慨もなくじと目を向け、面倒くさそうに何度目か分から
ない言葉を発した。
「だから、私は貴方のものになどなるつもりはこれっぽっちもありませんし、そもそもまだ
結婚する気など欠片もないんですが……」
 深い深い溜息を漏らすリズの様子に構うこともなく、デュニックは一人言葉を続ける。
「ああっ、今でも目をつぶればあの光景が鮮やかに蘇るよ! あの日、ボクがつまらない見
回りの任務に出かけたあの日! 旋風と共に剣と舞い、野盗どもを瞬く間に叩きのめしたキ
ミの姿をボクは一瞬で気に入った! キミが魔物であるということを知ってからはボクの興
味は日に日に積もっていったよ。そしてキミは、この栄誉あるライントード家の跡取り息子、
デュニック=ライントードのものとなることを許されたのさ! ふふふふ、つれない態度も
今のうち、すぐにボクに選ばれたことを感謝することになるよ」
「そういう自分勝手なところと、鼻につく上から目線がそもそもイヤなのですが。……まあ
いいです。とりあえずしばらくは医療院のベッドの上でおとなしくしてもらいます」
 自分の意に従わないものは何一つないというかのような貴族剣士の声にかすかに顔をしか
め、リズは背の大剣を抜き払う。打ち直されたばかりの剣は刃こぼれ一つなく、鏡のように
澄んだ金属の輝きが、木漏れ日を受けて煌いた。
 眼前の相手は、剣を構えたリズの姿を見てもまだ不敵な笑みを浮かべたままだ。戦士とし
ては素人以下の男の態度に呆れる彼女だったが、叩きのめすのには好都合。少なくとも何度
口で言っても分からないこのバカ貴族には、少しばかりきつめのお灸が必要だろう。
(……殺しはしません。鎧の上からいくらか打ちのめしてあげれば、あの人も引くでしょう。
いくら打ち直された剣の切れ味が鋭いとはいえ、未熟な私では斬鉄は無理でしょうし。)
 そう考えを纏めると、リズは下段に剣を構えなおし、目の前の男に向かって駆け出す。彼
我の距離は約10歩ほど。とはいえリザードマンの卓越した身体能力なら、あっという間に
剣の間合いにまで近づける距離だ。ようやくのろのろと男の手が動き始めたのをちらりと見、
リズはやや馬鹿にするような声で、呟いた。
「遅いです。いい加減実力差を学習してください」
 言い終わるころには、駆けるというより跳躍するような動きで間合いをつめたリズの目の
前に、男の姿が迫っていた。まず手始めに斜めからの切り上げを鎧の上からわき腹に叩き込
もうと、剣を握る手に力を込める。
 何度となく繰り返してきた光景。いつもはこのあとリズの大剣が目の前の貴族のぼんぼん
をしこたま打ちすえ、動けなくなった彼の負け惜しみを聞きながらこの場を立ち去る流れだ。
あまりにもそれが普通になってしまったせいで、リズは今回もそうなるだろうと思い込んで
しまった。そのために、一瞬先には自らの体に剣が食い込むであろう光景を目にしても、デ
ュニックの顔に余裕の笑みが浮かんでいることの違和感に彼女は気付けなかった。
「ふふふふふ、戦いの場での凛々しい顔もいいねレディ。でもそのこわい攻撃は遠慮したい
な。まあ、ボクに従うようにあとでゆっくり教育してあげるけどね」
「何を……ッ!?」
 その態度にいつもと違うものを感じたリズだったが、すべては遅すぎた。彼の笑みがいっ
そう深まった瞬間、地面に彼らを中心とした円形の陣が浮かび上がり、黄金色の光が湧き上
がる。同時に、リズの体は斬撃を繰り出そうとしたその姿のまま、凍りついたように動かな
くなった。愕然と目の前の男の顔を見上げるリズに、デュニックは得意げな表情を浮かべる。
「驚いたかい? すごいよね? 『サンクチュアリ(聖域)』の効果は。このスクロール結
構高かったんだけど、それでもキミの顔をこうして間近で見ることが出来たんだから、惜し
くは無いね」
「く……うかつ、でした……」
 己の実力を過信し、見え見えの罠に飛び込んでしまった自分の愚かしさを悔やむ少女。だ
が体は硬直したままピクリとも動かず、それが彼女を焦らせる。
「そんな顔しないでも、ひどいことなんてしないよ? 動けなくなった女の子にどうこうし
ようなんて趣味、ボクには無いからね。ただ、暴れられたり逃げられたりすると困るから、
ボクの家までは我慢してもらうけど」
 笑みを浮かべたままのデュニックが、彼女の耳元で囁く。そういわれたところで、自由を
奪われたリズが安心できるはずが無かった。彼の家に連れて行かれなんかしたら、何が起こ
るかわかったものではない。パニックになりそうな頭を無理やり鎮め、何とか脱出のチャン
スを窺う。
「無駄だよ? この術法はもともとキミ達みたいな魔物を拘束するためのものだからね。陣
の外からならともかく、中に囚われたものにどうこうできるものじゃないよ。だからさ、お
となしくボクと一緒にいこう?」
「おことわり、です……」
「しかたないね……本当はこれは使いたくなかったんだけど……」
 苦悶の形相を浮かべるリズを案じるような、しかしどこかその強情さに呆れるような顔で、
デュニックが言う。彼は今まで手も触れていなかった剣に手を伸ばし、鞘から引き抜く。ま
さか、自分のものにならないなら殺すつもりだろうか。その考えに、少女の顔に恐怖が一瞬
生まれる。
「ああ、心配しないでもいいよ? 殺したりはしないから。大体、ボクのものになる大切な
者を、殺すなんてとんでもない。ちょっとした契約をしてもらうだけだからさ」
 言って彼女の目の前に晒された剣は、不気味な血の色の宝石をカップガードの中央にはめ
込んだ、細い刀身をもつ刺突剣だった。だが、その刀身からは魔術に疎いリズにも分かるほ
どの魔力の気配が立ち上っている。
「わかるかい? ボクも話で聞いただけで、試すのは初めてなんだけどね。この剣、普通の
武器としての使い方のほかに、刺し貫いて呪縛をかけ、契約を結んだ魔物を忠実な僕にする
ことが出来る力があるんだってさ。手に入れるの苦労したよ。何せパパから貰ったおこづか
いの殆ど全て使っちゃったからね」
「……く!」
「じゃあ、準備はいいかな?」
 リズはその言葉を無視して、全身に力を込めた。だが、彼の言ったとおり指一本すらかす
かに動かすことも出来ず、その間にも剣は少女に近づいていく。間近に迫る剣の切っ先に、
リズの心にはほんのわずか、諦めと絶望が生まれそうになった。
(ああ……これで、終わりなのですか……? 母上、ごめんなさい。リズは、誇り高きリザ
ードマンの一族、デュランダーナの名誉を汚してしまいました……)
 目に涙が浮かび、少女がそのまぶたを閉じようとした時。不意に風切り音が響き、何かが
地面に突き立つ音が耳に届いた。同時に、目の前を覆っていた黄金色の光が消え去り、彼女
の体を戒めていた力が失せる。
「きゃ……!」
 不自然な体勢で拘束されていたリズは、その力が消えたためにバランスを崩し、小さな悲
鳴を上げ地面に倒れこむ。打ちつけた体の痛みを堪えて顔を上げれば、目の前には冷たい輝
きを持つ長剣が突き立っていた。どうやら魔法陣はその一撃で効果を失ったらしい。
「だ、だれだ!? こんな真似をするのは!?」
 先ほどまでの余裕が消えうせ、やや怯えたような声を出してデュニックは周囲を見回す。
それに、若い男の声が応えた。
「もし勘違いなら謝らせてもらいます。正直、事情は良く分からない……けれどどう見ても
そっちの女の子が襲われてるように思えたので」
 声の方向に顔を向けると、軽装の鎧を纏った人物がこちらに歩いてくるのが見えた。穏や
かそうな心を良く現す顔にはわずかな困惑が浮かんでいるものの、翠玉の瞳は鋭くデュニッ
クに止められている。
「なんだ、お前!? じゃ、邪魔するなよっ!」
 歩み寄る青年を牽制するように剣を構えるデュニック。だが、新たに現れた剣士はそれを
まるで気にする様子も無くリズの側にかがみこむと、うずくまったままの彼女に優しく声を
かけた。
「大丈夫かい? 怪我は無い?」
「あ、はい……大丈夫、です」
 自体がまだ上手く飲み込めず、ぽかんとしていた彼女は青年の言葉にはっとして体を確か
める。どうやらもう完全に魔力の拘束は効力をなくしたらしく、体を動かすのに何の障害も
感じなかった。倒れた時に打ったところも痛みが無い所をみると、怪我もしていないようだ。
「それはよかった」
 安堵の息を漏らす青年に、リズも緊張を解く。どうやらこの人は本当に自分のことを心配
してくれていたようだ。リザードマン特有のひれや尻尾を見ても動じない所をみると、魔物
だからといってどうこうしようとするつもりは無いらしい。
「……ッ!! ボクのものに何をするんだよ、お前!」
 だが、この場にいたもう一人の男、デュニックにはそのまま二人を見逃すつもりは毛頭な
かった。我に返った彼は突然の乱入者に、怒りも露に剣を突き込む。
 あまりの短慮、いや考え無しの行動に、リズが驚きの言葉を上げるよりも早く。地に突き
立ったままの剣の柄を握った青年は、つむじ風のように体を翻し剣を払う。金属同士がぶつ
かる甲高い音があたりに響いたかと思うと、直後デュニックの手から弾き飛ばされた細剣が
彼らから離れた地面に突き刺さった。
「あ……あ……?」
 何が起こったのか全く分かっていない様子のデュニック。間抜けな声が漏れる口は、剣先
をぴたりと突きつけられると怯えたようにつぐまれる。その彼を鋭く見つめ、立ち上がった
青年は口を開く。
「失礼。その鎧に格好、どこかの騎士団所属の方とお見受けします。もし、この女の子を貴
方が追う正当な理由があり、貴方がその任務中だったというならすぐにお引渡ししましょう。
ですが、もしこの子に何の非も無く、貴方が自らの勝手な理由で彼女を害しようというなら
ば。フリスアリス領自警団団長、カーライル=フリスアリスの名において、その非道を許す
わけにはいきません……!」
「うう……」
 淡々とすら言えるその言葉は、かえって異を唱えさせないだけの威圧感があった。実際に
デュニックは彼にすっかり呑まれてしまっており、先ほどまでの余裕も、軽薄な態度もすっ
かり影を潜め、追い詰められた獲物のようにぶるぶると震えている。
 その姿を見、カーライルは突きつけていた剣を引く。張り詰めた気を幾分緩めると、ふた
たび口を開いた。
「まあ、私は領主でも執政官でもありませんから、貴方を裁こうというわけではありません
し、このままおとなしく引くというならば、邪魔をしようとは思いません」
 カーライルの言葉に一瞬ほっとしたような顔を浮かべたデュニックは、じりじりと後ずさ
る。そして地に突き刺さった自分の剣を掴むと、一目散に駆け出した。
「つ、次こそは必ずキミをボクのものにしてやる! お、覚えてろー!」
 分かりやすい捨て台詞を残し逃げ去った彼の背が視界から消えたのを確かめると、カーラ
イルはやれやれと剣を鞘に戻す。チン、という涼やかな音に事態が終わったのをぼんやりと
感じ、リズは立ち上がると目の前の青年に頭を下げた。
「あ、危ない所を助けていただき、ありがとうございました。私は……」
「リズさん、ですね」
「あ、はい。そうです。けど……どうして、私のことを?」
 初対面の相手に名前を呼ばれ、リズは疑問を顔に浮かべたまま聞き返す。それにカーライ
ルはやや苦笑気味の表情を作ると、懐から一通の手紙を取り出した。
「先日、義父に知り合いの鍛冶師からの手紙が届きましてね。『近々うちの客がそっちに行
くから、世話してやれ』と。まさか出会って早々厄介ごとに巻き込まれているとは思いませ
んでしたが」
「うう……面目ないです……」
 己の未熟さに、恥ずかしさと共にリズはうつむく。以前の護衛の仕事といい、鍛冶師の山
での襲撃といい、そして今といい最近は誰かに助けてもらってばかりだ。自分の力の無さを
痛感させられ、彼女の心を悔しさが覆う。
「ああっ、すみません、そんなつもりでは……」
 暗く沈みこんだリズに、慌てたカーライルの声が掛かる。だが、彼の慰めの言葉は彼女の
耳を素通りし、少女は力なくうつむくばかりだった。
「いえ……いいんです……やっぱり父母の言うとおり、私はまだまだ未熟だったんです……」
 この世の終わりのような声におろおろとしていたカーライルだったが、ふと何か思いつい
たらしく、少女の方にぽんと手を置く。その感触に思わず顔を上げたリズに、彼は言った。
「それなら……しばらく私たちの家で剣の練習をしてはどうですか? 正直な所私も人に教
えられるほどの腕ではありませんが、ただ戦い歩いて武者修行をするのとは違ったものが見
えてくるかもしれませんし」
「え……いいんですか?」
 思わず聞き返した彼女に、カーライルはにこりと微笑む。
「もちろんです。妻も義父も喜びますよ。そもそも、手紙にもそういった旨のことが書いて
あったわけですからね」
 そう言われてもまだ少しためらっていた彼女であったが、宿と修練の場というメリット、
それ以上に自分のことを案じてくれる彼の好意を断ることは出来ず、最後には頷いたのだっ
た。

――――――――――――――

 時は戻って現在。フリスアリス家の中庭。
 剣術修行は一時中断し、リズはカーライルとカテリナの夫婦と共に、陽光降り注ぐ芝生の
上でのんびりとお茶の時間を楽しんでいた。時折吹く風に、緑色の鱗に覆われた尻尾が気持
ちよさそうに揺れる。既にカテリナの焼いたクッキーは残り少なくなっており、中身の少な
くなったカーライルのティーカップに、カテリナが紅茶を注いでいた。あれこれと世話を焼
く彼女に、カーライルの妻を案じる声が掛かる。
「カテリナ様。そこまでしていただかなくても、紅茶くらい私が注ぎますから。大事な時期
なのですから、無理をなさっては……」
 そういわれたカテリナの方に目をやれば、彼女のお腹が膨らんでいるのが見える。その中
には彼らの愛の結晶、赤ちゃんがいるのだ。出産まではまだ少し間があるというものの、カ
テリナを愛するカーライルにとっては気が気ではないらしい。
「大丈夫ですよ、カーライル様。このくらいはさせてください。でないと私、やることがな
くなってしまいます」
 夫に文句を言いながらも、カテリナの顔は幸せそうであった。サキュバスである彼女の背
の羽がぱたぱたっと動くのも、それを肯定している。仲睦まじい二人の様子を隣で見つめる
リズも、自然と顔がほころんでいった。
「ん? リズ、どうかしましたか?」
 笑顔で自分達を見つめるリザードマンの少女の視線に気付いたカーライルが、リズに声を
かける。彼女笑顔のまま、少しだけいたずらっぽい調子の言葉を発した。
「いえ、先生。ただ、お二人がとても仲良くされていたので、ちょっと羨ましいな、と。カ
ーライル先生も、私のことばかりじゃなくて奥様に構ってあげないとダメですよ」
「なっ」
「り、リズちゃん」
 彼女の言葉に、カーライルとカテリナの顔が同時に真っ赤に染まる。あまりの息の合いよ
うにくすくすと笑い声をこぼした彼女は手近な木に立てかけてあった自分の剣を取ると、戸
惑い照れくさそうにしながら顔を見合わせる夫婦に叱られる前にその場を逃げ出した。
「ご馳走様でした。それでは先生、鍛錬の続きをしてきます」
 そういい残してその場を去った彼女の背に、カーライルとカテリナはいまだ赤い顔のまま、
苦笑を浮かべるしか出来なかったのだった。

 いまだお茶会の場で見つめあう二人から離れ、リズは剣を振るう。カーライルとカテリナ
は、人と魔物でありながら気持ちを通じ合わせた理想の恋人達だと思った。父と母もその意
味では同じだが、話によるとカテリナは元々は人で、とある事件の結果、サキュバスになっ
てしまったのだという。その点で元からリザードマンであった自分の母とは決定的に異なっ
ている。おそらく、いくら領主の娘とはいえ、いや、元がただの人間で無く領主の娘という
立場だったからこそ、魔物になった後の苦難は並々ならぬものがあったに違いない。それは
彼女自身だけでなく、夫であるカーライル、父であるキルレインのおじ様、屋敷の使用人、
街の人々すべてにいえるはずだ。だが、カーライルもおじさまも、この家、この街で暮らす
誰一人、そのような影を顔に持ってはいなかった。
「……奇跡のような話ですね」
 突き込んだ剣を引き、構えを戻すとリズは呟く。そう、人と魔物が皆笑顔で暮らすこの街
は、その存在自体が奇跡ともいえるのだ。人が魔物を排斥することも無く、魔物が人を避け
て、あるいは人への敵意をむき出しにすることなく暮らせるこの街は、誰にとっても住みよ
い一つの理想郷といえた。
「だけど」
 正眼に戻した構えから呼気を一つ。剣の重量を生かした振り下ろしから、素早く切り返し。
斜めに跳ね上がった剣をリザードマンの強靭な筋肉で抑え込み、体ごとの薙ぎ払い。
「世界のすべてがそう優しくは無いのですね……」
 脳裏に今までの旅で目にした光景が浮かぶ。人にあだなす存在として、魔物を狩るの人々。
あるいは魔物を売買の対象としてしか見ない者。そして逆に、人を襲う夜盗に身をやつした
魔物。魔物になってしまい、絶望のあまり世を捨てひっそりと生きることを選ばざるを得な
い人。
 そして、自らの欲を満たすためだけに、魔物を奴隷のように、あるいはコレクションの一
つのようにすべく手に入れようとするもの。
 彼らにも、そうする理由や言い分はあるのかも知れない。だが、だからといって他人を傷
つけ、その命を好きにしていいはずが無い。こうしてお互いに理解し合えば共に幸せに暮ら
せるのに。父母や目の前の夫婦を知る彼女は、どうしても悲しくならざるをえない。さらに
空しいことに、こんなことを考えても、リザードマンの小娘には何一つ現状を変えられない
のだ。
 人と魔物。異なる種族が共に暮らす大地で、人の父と魔物の母を持つ自分は。いったいど
うすればいいのだろう。
「結局、私に出来るのは剣を振ることだけ、ですか……」
 小さな跳躍から大剣を打ち降ろした彼女は、地に片膝をつけうつむいたまま自嘲気味に呟
く。
「リズ」
 突然かけられた声に、彼女は顔を上げる。
「せんせい……」
 呟いた少女の目の前には、いつもは穏やかで優しい顔に珍しく厳しさを宿したカーライル
の姿があった。のろのろと立ち上がった彼女に、彼は口を開く。
「君は時々、そういう顔をしますね。瞳の中に、戸惑いと悲しみ、そしてわずかな怒りを湛
えた表情です。何か、大きな悩みを持っているのでしょう? それ自体は悪いことではない
と思います。悩みを持たないものは、必ず短慮に走り、自らを破滅させますから」
 彼はそこで一度言葉を切り、リズをじっと見つめる。
「けれど、迷いを抱えたまま剣を振るものもまた、己を滅ぼすのです」
「あ……」
 先ほどの剣舞から、自分の心が剣に乗っていないことを見抜かれたのだろう。彼の言うと
おりだった。武を極めることを一族の誇りとする彼女たちにとって、心無い武技は自らを否
定することにも等しい。リズは恥ずかしさと情けなさに、うつむいた。
「すみません、先生。……やっぱり私は……未熟、ですね」
「誰しもが未熟ですよ……だからこそ、前に進めるのではないでしょうか?」
 うつむいたままの彼女にかけられた声に、リズは顔を上げる。目の前にはいつもの優しい
表情に戻ったカーライルが立っていた。彼女の目をみつめたまま、青年は続ける。
「それに、悩みは一人で解決しなければならないわけではないでしょう? 未熟な私にでも
話せば楽になるかもしれませんよ?」
 真面目な彼には珍しく、少しだけ冗談を言うように軽い調子で言葉を発した彼に、リズは
小さく頷いたのだった。

「……なるほど。確かにそれは人が一人で、いや、仮に多くの人が考えたとしても、簡単に
は答えの出ない、解決しない問題なのかもしれません」
 芝生に腰を下ろし、リズの悩みを聞いたカーライルは、溜息と共にそう言った。
「そうですよね……」
 同じく息を吐き出したリズが、抱えた膝に額をつけ呟く。芝生の上の尻尾も、元気なく置
かれたままだった。
「ですが、だから考えない、というのは違います。人であろうと魔物であろうと、同じ世界
に暮らし、そしてこうして意思の疎通が出来る以上、誰もが考えなくてはならない問題なの
ですから。そのブロックスさんの言葉と同じにになってしまいますが、結局の所、リズ、貴
女が悩むということは、確たる答えを出すに足る材料が不足しているということなのでしょ
う」
「材料、不足……」
「ええ、きっとこの問題は正しい答えがあって、それを誰かが指し示し皆が従うようなこと
簡単なことではありません。生きる中で各人が悩み、苦しみ、自らの中に確たる答えを見つ
けなければならないのでしょう。そしてリズ、貴女はまだ幼い。聡明な貴女はあまりにも早
く問題に気付いてしまったがゆえに、早く答えを出さねばと焦ってしまったのでしょう」
「確かに……そう……なのかもしれません」
「ええ、ですから……様々なものを見、聞き、考え、ゆっくりと答えを探しなさい。一つの
考えに固執せず、様々な考えに軽薄に移ろわず、己の中で確かな答えを育てなさい」
「難しい、ですね」
 呟く少女に、青年はふふ、と笑う。
「そうですね……。でも、貴女はそれを止めようとは思わないのでしょう?」
「はい」
「ならば、一つ目の答えが出たのと同じです。そして、貴女がその答えを追い求めるのに、
その剣が役に立つこともあるでしょう。曇りなき眼と心が、貴女にある限り、その剣が道を
切り開いてくれるはずです」
「あ……」
 それは、父から聞いた言葉と同じだった。いつもは親馬鹿な父が、珍しく真面目に語った
言葉。幼い彼女には十分に理解できない部分もあったが、あの時より少しだけ成長した今は
その言葉の意味が分かる気がする。
「そう、ですね。すべては、この剣と共に歩む日々が教えてくれるのかもしれません」
 言って、彼女は小脇においていた剣を引き寄せる。日の光を反射し煌いた刀身が、彼女の
言葉に肯定してくれたようにも思えた。そのままリズは立ち上がり、カーライルにぺこりと
頭を下げる。
「ありがとうございます、先生」
 少女の感謝の言葉に、青年はにこりと微笑む。
「たいしたことはしていませんよ。それに、私もその答えを探す旅の途中ですからね」
 言葉の通り、いずれ領主となる彼は、リズ以上にその問題を抱えていくことになるのだろ
う。だがその表情には、決して迷いは無かった。
「さて、そろそろ戻りましょうか。貴女の鍛錬の様子を見たカテリナ様も、何か悩んでいる
のではと心配していましたからね。貴女の笑顔を見せて、安心させてあげてください」
「はい」
 そして、二人が立ち上がり屋敷に戻ろうとしたその時。屋敷へと続く小道から、一人のメ
イドがこちらに走ってくるのを二人は目にする。何事かといぶかる彼女らの前にやってきた
メイドは一礼すると、手に持った紙をリズに渡した。
「え? ……私に?」
 戸惑いながらも受け取ったリズはとりあえずその紙を読む。やたら飾り立てた高級そうな
紙に、お世辞にも上手いとはいえない文字でこう書かれていた。

『愛しいリズへ
  
 ライントードの誇りをかけて勝負を申し込む。今日こそこのボクのものにしてあげるよ。
                                 
                             デュニック=ライントード』

「なんでしょう、この頭の悪さを露呈するような文字の羅列は」
 顔をしかめたリズに、傍らから覗き込んだカーライルも困惑する。
「おそらく……リザードマンの掟から察するに……結婚を前提とした勝負の申し込み、でし
ょうか?」
 言った自分でも妙に感じるその言葉に眉をしかめ、カーライルが唸る。確かに文意はそう
としか取れないのだが、あの男は正気だろうか。今まで何度も戦ったことがあるが、彼の攻
撃はリズにかすり傷すらつけたことが無いというのに。
「それで、勝負の日は?」
 考え込むリズの隣で、カーライルがメイドに問いかける。だがメイドが口を開くより早く、
きざったらしい声があたりに響いた。
「今すぐさ! ボクはあまり待つのが好きじゃないんでね。さっさとキミをボクのモノにし
たいんだ」
 顔を向けた二人に、いつの間にやら彼らの側にやってきていたデュニックが言う。いつも
通りのやたら豪奢な衣装に身を包んだ彼は準備万端といった様子で、リズの返事を待たずに
今すぐ勝負を始めそうですらあった。
「また勝手なことを言って……」
 呆れるというより、最早嫌悪感を露にするリズを庇うように前に出たカーライルが、口を
挟む。
「そういう言い方は感心しませんね。彼女はモノではありません。曲がりなりにも女性と付
き合おうというのなら、人格を認め、彼女を理解した上で、しかるべき段階を踏むのが筋で
はありませんか?」
 だが、デュニックはカーライルをちらりと見ると、鼻を鳴らした。
「ふん、『堕ちた聖騎士』がよく言うよ。お前こそ、サキュバスのマスターとして彼女を好
きにしているんだろう? ボクのやり方にどうこう言える立場かい? ああ、そうか、そう
いえば噂で聞いたけど、お前はもう人間じゃないんだってね。ご同類なら、魔物を庇っても
仕方ないか」
「なっ!! ち、違います! 先生は……!」
 彼らの馴れ初めから、今日までに乗り越えてきた苦難を聞き知ったリズは、あまりにひど
い物言いに怒りを露にする。だが、身を乗り出そうとする彼女をカーライルはそっと制する
と、静かな声を発した。
「だから、人間である自分は魔物を好きにするのだ、と? それが許される、とでも?」
「そうさ! 当たり前じゃないか。魔物なんて百害あって一利なし。人間が下等な魔物をど
うこうしたって、文句は無いだろう? それに平民といえど人間は玩具にするのは色々面倒
くさいけど、魔物ならそんなこともないしね! でもただの魔物じゃつまんないし、それな
りに名の知られた『少女剣士』なら貴族のボクのものにもふさわしいだろ?」
「…………」
 あまりに身勝手な言葉に、リズは絶句する。これならまだ素人剣士が玉砕覚悟でする求婚
の方がマシだ。だが目の前の貴族の男は、彼女の人格を完全に無視し、くだらない欲と見栄
を満たすだけの道具にしようとしている。貴族とは対極のあまりの低俗ぶりに、彼女は胸が
むかつくのを覚えた。
「貴方の言い分は分かりました。しかし、以前私はこういいましたね? 『もしこの子に何
の非も無く、貴方が自らの勝手な理由で彼女を害しようというならば』許しはしない、と。
この子は私たち一家の大切な客人です。その彼女を傷つけようとするのならば、私も容赦は
しません」
 カーライルは剣に手をかけ、今まで見せたことの無い形相で目の前の無礼な男を睨みすえ
る。デュニックがこれ以上下手なことを言ったら、その首が抜き打ちで飛ばされかねないほ
ど気は高まり、最早殺気にまでなっている。
「ふふん、いいのかな? ボクを傷つけて。フリスアリス家をよく思わない連中が、ここぞ
とばかりに叩いてくるよ?」
 得意気に挑発するデュニックに、カーライルが動くより早く。一歩前に出たリズが口を開
く。
「分かりました。その勝負、お受けします」
「リズ……!」
「そうこなくちゃね。じゃあ……」
「ただし。この勝負で貴方が負けた場合は、もう二度と私と先生達に構わないこと。その前
に姿を現さないこと。その念書を書いてもらいます。その条件を飲むなら、私が勝負で破れ
た場合、貴方のものになりましょう」
「ああ、いいよそのくらい。ま、ボクが負けるはずは無いけどね」

 庭の一角、木もオブジェもなく広々とした場所へと向かう道すがら、カーライルは傍らを
歩くリズに声をかける。
「あんな約束をして本当によかったのですか? 話を聞くに、明らかな実力差がある貴女相
手にあの理由、何か策があるに違いません」
 不安げな青年に、リズは首を振る。
「構いません。いつかははっきりさせなければいけない問題ですし。それに、ああでも言わ
なければあの男はいつまでも私や先生、カテリナ様に付きまとうでしょう。正直相手がどん
な策を持っているかは分かりませんが、絶対の自信を持っている今こそ、誓約をさせ叩きの
めす絶好の機会なのです」
 そう言う彼女に、捨て鉢な様子は全くない。リズはさらに、さっきの鍛錬から抜き身のま
ま片手に持った剣を目の前にかざすと、呟いた。
「それに、すべての答えはこの剣と共に歩む日々が教えてくれる、この剣が切り開いた先に
答えがある……でしょう?」
「そうでしたね。では、武運を」
「ありがとうございます、先生」
 話しているうちに、彼ら一団は屋敷の庭の隅、広々とした空間に足を踏み入れていた。リ
ズとデュニックがお互いから10歩ほど離れ、向かい合って立つ。中央に立会人としてカー
ライルが歩み出ると、リザードマンの少女と貴族剣士、二人の顔をそれぞれ一瞥し、彼は声
を発した。
「ルールは時間無制限一本勝負。気絶、降参及び立会人が戦闘不能とみなした場合、敗北と
する。騎士団の決闘法とリザードマン族の掟に従い、それぞれ武器は一つずつ、攻撃魔法、
回復魔法、それに類する道具の使用、さらに毒などの使用は禁止。相手の殺害も禁ずる。二
人とも、異議は?」
「ないよ」
「それで構いません」
「では、お互い敗北後の取り決めについて誓約を」
 決闘を始める前に、カーライルが呼びつけたメイドが紙とペンを持ってくると、デュニッ
クはさらさらと誓約を書き込んだ。続いて、リズも。魔術師が契約に使うその特別な紙は、
デュニックとリズ、そして立会人のカーライルの書名が書き込まれると一瞬だけ鈍く光を発
する。
「これで満足?」
「ええ、結構です。それでは、はじめましょう」
 その紙を受け取ったカーライルは懐に収め、下がる。両者が剣を構え、場にはじりじりと
緊張が高まっていく。
「では、お互いに悔い無き清廉なる戦いを! はじめ!」
 カーライルの声に、リズの運命を決める戦いの幕は切って落とされた。

 開始の合図がかかっても、お互い剣を構えたまま、ピクリとも動かない。リズは愛用の大
剣を両手で正眼に構えた正統派にして万能な構え。それに対し、デュニックはいつぞやの細
剣を持った右手がやや前になった構え。レイピアやエペを使った貴族の剣術試合でよく見ら
れるもので、それ自体には特に妙な所は無い。
(……策というのがあるならば、やはりあの剣の呪いでしょうか?)
 リズは正眼に構えたまま、こちらに突きつけられている細身剣を注意深く観察する。確か
前の時は、刺した相手に呪いをかける力があるとか言っていた。そのために詠唱なり行動な
りのどのような方法とどれくらいの時間が掛かるのかは分からないが、もし喰らえば彼の勝
ちということとと同義な事態にはなるだろう。
 それを考えると、あの剣は危険だと思う。正直、デュニックの動き自体は全然たいしたこ
とが無い。元騎士団隊長であり、リズとここ数日修行の中で手合わせしたカーライルや、彼
の義父であり凄腕の魔法剣士であるキルレインのような、人間でありながら魔物ばりの身体
能力や戦技を持つものたちと比べれば。いや、そこまで行かなくても今までリズが戦ってき
た相手達に比べても目の前の貴族の実力は、随分と見劣りする。
 それでも、あの手に持った剣はちょっとまずいと思う。サキュバスや魔女のような魔術知
識も対魔法能力もない、純粋な戦士タイプであるリズには、魔法やその力を持った武具は天
敵なのだ。
「こないのかい? キミには珍しいね。それとも、ボクが怖くなっちゃったかな?」
 ニヤニヤとした笑みを浮かべながら、挑発するようにデュニックが言う。だがその言葉が
逆に、リズの迷いを断ち切った。
(そうだ、言ったばかりじゃないか。道は、この剣で切り開くと!)
 頷いた彼女は、剣を担ぐように構えなおすと地を蹴り敵に突撃する。相手の手の内が分か
らないのは確かに不安だが、だからといって待っていても事態は好転しない。いつだって道
は、自ら足を踏み出したものの前に開かれるのだ。
「いくら魔剣といえど、その細身で受けられますかっ!?」
 突撃の勢いを乗せ、リズの剛剣が振るわれる。だがデュニックは受けるどころかかわすそ
ぶりも見せず、にやりと笑んだ。
「受ける必要なんて無いのさ、だってね……」
 その言葉の意味を考える前に、振り下ろされた剣が何かに激しくぶつかる衝撃がリズの手
を痺れさせる。愕然として目を見開いた彼女は、剣が虚空の何もない場所で停止しているの
を見た。
「えっ!?」
 その隙を見逃さず、デュニックの剣が突き出される。中空に不安定な体勢のままでいたリ
ズは、虚空の壁に突き刺さった大剣の柄をつかんだまま逆立ちするように身を反らし、ぎり
ぎりで迫り来る剣先をかわした。敵の舌打ちを聞きながら反動をつけて剣を「存在しないは
ずの壁」から引き抜くと、バックステップで間合いを取る。
「この間の魔法!? ……いや、違う!」
 最初は以前の束縛魔法陣かと思ったが、剣を持った自分の手、そして体が動くことを確か
めた彼女はその考えが間違いであったと悟る。そもそも、相手の自由を拘束するような魔法
は、決闘では使えない取り決めのはずだった。
「そう、ボクは反則はしてないよ。ただちょっと、鎧を変えただけさ」
 その言葉に視線を移すと、デュニックが纏った鎧の胸元に薄く魔法光が輝き、ルーンを刻
んだ小さな円陣を浮かび上がらせていた。リズも修行の中で何度か見たことのある紋様、そ
れは。
「『プロテクションサークル(護法円陣)』!? しかも、こんな強力な!?」
 リズの言葉に、青年はにやりと微笑む。
「さすがに知ってたかな。そのとおり。これも入手には苦労したんだよ? 何せあちこちの
鍛冶屋と魔術師を散々部下に回らせ、大金を払って、ようやく手に入れたんだからね」
「そんなもの、決闘の場において許されると思っているのですか!?」
 怒りと焦りをないまぜにしたようなカーライルの声がデュニックにかかる。だが彼は悪び
れた風も無く言った。
「もちろん。取り決めは『それぞれ武器は一つずつ、攻撃魔法、回復魔法、それに類する道
具の使用、さらに毒などの使用は禁止』だろう? ボクは何一つ違反してないよ?」
「くっ……」
 悔しげな歯噛みをカーライルがするのを満足げに眺め、デュニックは視線をリズに戻す。
「さて? どうする? いくらキミでもこの『壁』は破れないだろう? それとも攻撃が効
かない相手を倒す手段でもあるかな? ないよね? おとなしく降参してボクのものになる
なら、痛いことはしないであげるよ?」
 最早勝ちを確信しているのだろう。ニヤニヤ笑いを深くしたデュニックが、剣を振って降
参を促す。彼の身を守る不可視の壁を見つめ、少女は自分にだけ聞こえる小さな声で呟いた。
「壁……ですか」
 壁。その言葉をもう一度、心の中で繰り返す。それは目の前に立ちふさがるもの。人と魔
物の壁、想いを遮る壁、そして、彼女が進む道をふさごうとする壁。
 そしてそれは、決して自分からどいてくれるものではない。壁は、乗り越え、己の力で道
を切り開かなくてはならないもの。
「ならば、私のすることは一つ、ですね」
 両手持ちの正眼の構えから、細腕一本での片手持ちに構えを変更。打ち出す矢の先が的を
指し示すように、剣先をデュニックに固定。空いた片手は剣に添え、どっしりと大地に根を
張るように開脚。大きく深呼吸、調息。
「突きかい? 無駄だと思うけどねボクは。まあいいよ、やってみたら?」
「リズ……!」
 小馬鹿にしたデュニックの笑いを無視し、じっとその動きを見守るカーライルを一瞬だけ
見ると、リズは敵に射殺すような視線を向ける。それはデュニックに向けたものでありなが
ら、彼に向けたものではなかった。彼女の双眸は、これからずっと続く、戦いの日々、そこ
で己の前に立ちふさがるであろう壁へと向けられていた。
「私のすべてを、この一撃に籠める!! 貫けッ!!」
 空を裂く気合と共に、腕が突き出される。剣が一筋の光と一陣の風となり、爆発したかの
ような凄まじい勢いと共に虚空を駆け、デュニックの眼前の光壁に激突。
 一瞬、動きは完全に静止。
 直後、ガラスが砕ける甲高い音と共に、彼の周りを覆っていたドーム状のバリアが砕け散
った。
「はぁっ……はぁっ……」
 文字通り全身全霊、精魂使い果たしたリズは、剣を握りしめたままがくりと地に膝をつく。
戦いはまだ終わっていない、立たなくてはと霞む目、震える手足に力を入れて立ち上がると、
その肩に暖かい手が置かれた。
「先生……わたしは、まだ……」
 戦えます、そう続けようとした彼女に、カーライルはすっと目の前を指差す。彼女がのろ
のろとその指先を見ると、ようやくピントがあった視界の中、芝生の上に白目を向き口から
泡を吐いて失神しているデュニックの姿が見えた。
「えっと……」
 戸惑う少女に、カーライルの穏やかな声が掛かる。
「最初の取り決め、『気絶、降参及び立会人が戦闘不能とみなした場合、敗北とする』。
つまり、貴女の勝利です、リズ」
「かっ……た?」
「ええ。見事な一撃でしたよ。立ちはだかる壁を、貫くほどに」
 勝利、といわれても彼女には実感が無かった。しかし目の前の光景と、そしてカーライル
が差し出した誓約の紙が輝いているのを見れば、彼の言葉が嘘でもなんでもないことがはっ
きりと分かる。
「これで、誓約は発動しました。もうこの男が貴女を悩ませることは無いでしょう。頑張り
ましたね、リズ」
 青年の手が、優しくリズの頭を撫でる。その感触に安堵を感じたリズの意識は、急激に薄
れていった。倒れ掛かる体を、カーライルが差し出した手が抱きとめる。
「おっと。流石にあの突きは幼いこの子には堪えたようですね。無理もありません。いくら
名剣とはいえ、魔術的な措置が何一つなされていない剣で魔法障壁を打ち破ったのですから。
まったく、末恐ろしい才能ですよ」
 芝生にそっと横たえたリズを優しく眺めながら、カーライルがねぎらうように声をかける。
だが、深い眠りについた少女は、ただ先ほどまでの激闘の欠片すらない穏やかな寝顔を浮か
べるだけだった。

――――――――――――――

「お世話になりました。先生、カテリナ様」
「いえ、道中、お気をつけて」
「またこの近くに寄ることがあったら、是非お顔を見せてくださいね」
「はい、必ず」
 フリスアリス家での決闘から数日。すっかり体調を取り戻したリズは夫妻に見送られ、旅
立ちの時を迎えていた。昨夜は領主キルレイン以下、屋敷のもの総出での送別会が行われ、
今朝もキルレインやカーライル、カテリナ、メイドのジュリアを筆頭にずらりとならんだ召
使が屋敷を去る彼女との別れを惜しんでいた。そこから街の周囲を囲む高い石壁の切れ目、
立派な門の前まで共に出てきてくれた夫婦に、リズは言葉に出来ないほどの感謝を感じる。
そのわずかでも伝えようと、彼女は思いつくままの言葉を発した。
「本当に、何から何までありがとうございました……。私、どこに行ってもここでの日々の
こと、忘れません」
「そんなにかしこまらないでいいんですよ。貴女はもう、私たちの娘みたいなものなんです
から」
 微笑むカテリナが、彼女のこげ茶色の髪をそっと梳く。その言葉にカーライルも頷いた。
「そうですよ。子供が親に会いに来るのを迷惑になど思いはしません。いつでも困ったこと
があったら、相談に乗りますから」
「はい、先生」
「そうそう、この前のライントード家の青年ですが、騎士団と彼の父親に、その素行を事細
かに記した報告書を誰かが匿名で送ったらしいですよ。話を聞くにどうやらどちらも彼の勝
手な行動に関しては随分頭を痛めていたようで、きついお仕置きをするとか。しばらくはこ
の街に限らず、表に出てくることは無いでしょうね。もちろん、貴女に付きまとうことも、
もう無いはずです」
「……そうですか。ありがとうございました、先生」
「いえいえ、私は何もしていませんよ」
 空惚けるカーライルに、リズはカテリナと共にくすりと笑う。街の遠くで鐘が鳴る音を聞
くと、リズは背の大剣を荷物と共に背負いなおした。
「それでは、そろそろ行くとします。カーライル様。カテリナ様。ありがとうございました。
どうかお体にはお気をつけて。またお会いできる日を楽しみにしています」
「ええ、私たちも」
「またいつか、お会いしましょう」
 笑顔で手を振る夫婦に、リズもまた笑顔を浮かべて頭を下げ、歩き出す。一度振り返って
手を振り、前に向き直ると元気よく足を進めた。

 空は高く澄み、雲ひとつ無かった。輝く太陽はまるで、少女の新たな旅立ちを祝福するか
のように暖かい陽光を地に降らせていた。

――『フリスアリス家日記 翠鱗の少女と剣術授業録』 Fin ――




 少女が旅立ってしばし。森の中にさしかかった道の中、リズは溜息を漏らす。
「また、ですか……」
 その声が響いた瞬間、道の両脇、左右の大木の陰から男と女が姿を現した。一人は引き締
まった体つきの壮年の男性。そしてもう一人は彼よりも若い、女性。二人とも腰には長剣を
帯びており、さらに女性の背部からは緑色の鱗に覆われた尻尾が見えた。少女の行く手を阻
むように立つ二人は、ブリガンディとアーメットヘルム、そして金属の篭手と具足を装備し、
少女に不敵な声をかける。
「見事だ! 我らの気配を見抜くとは!」
「だけどそれもここまでよ! さあ少女よ、この先に行きたければ私たちを倒してみせなさ
い! いざ、勝負!」
 男と女は高らか叫ぶと、腰の剣を抜く。こちらに駆け出した二人を前に、少女の額にびき
りと青筋が浮く。
「いい加減に……うっとおしいんです――――ッ!!」
 少女は電光石火の抜き打ちで刃を走らせると、眼前の空間を大きく薙いだ。綺麗な弧を描
く光条が走ったと思った瞬間、ぱきぃんと言う音と共に鎧の男女が持っていた剣が根元から
折れる。
「ノ――――ッ!? 私の愛剣、何たる非業の宿命か!?」
「伝説の試練を潜り抜け授かった神宝が!?」
 悲鳴を上げる鎧二人を冷えた目で見つめると、少女は呆れたように呟く。
「よくもまあそんな法螺を思いつくものです。何が名剣ですか。ただの店売りのロングソー
ドでしょ! ……ほら、もう諦めて正体見せなさい! これ以上茶番をやるつもりなら、本
気で斬りますからね!」
 びしりと剣の切っ先を突きつける少女の声に、冗談抜きで本気の響きを感じたか。二人は
ぴたりと動きを止めると、気まずそうに後ろを向いた後、ごそごそと兜を脱いで振り向いた。
 そのあらわになった顔を認めると、少女は剣を収め、先ほど以上の大きな溜息をつく。
「……だから。いい加減ついてこないでって言ったでしょう! 何で言うこと聞けないんで
すか!? 子供ですか!? 父上、母上!!」
 大気を振るわせる大音声に、周囲の木々から驚いた鳥達が飛び立つ。
「だってなあ、リズ」
「私たち、かわいい一人娘が心配で」
 少女、リズの両親である二人は、顔を見合わせると悪びれもせずのうのうとのたまった。
ちっとも聞く耳持たない両親に、リザードマンの少女はがくりと肩を落とす。
「はあぁ……道を切り開く前に、この壁を何とかしないといけないのですか……」

 ……やっぱり、真の剣士への道はまだまだ遠そうだった。


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