Vuturさんから戴きました!
ありがとうございます!



「では、○時×分になったら再試験を始める。各自、筆記用具以外は仕舞いなさい――」
 教師の小笠原が告げる。時計の針は開始時刻をあと僅かに告げようとしていた。
 チャイムが成る。開始の合図だ。あらかじめ配られていたテスト用紙が翻される音がパラパラと聞こえる。本試験での開始の瞬間は一瞬で過ぎ去る嵐の様に騒がしくなるが、今はまばらである。
「……はぁ」
 小笠原の溜息が静寂に沁みる。今回のテストはクラスの全員が通って然るレベルだった。だから、再試験に該当する生徒など一人もいない筈だったのだが。

 恐らくは本試験と同じ内容を並べた、この答案に俺は迷いなく回答を書き込んでいく。俺は天才なのではないかと錯覚まで憶えるほど淀みのない答えを書き連ねる。開始から一〇分。俺にとって必要な時間はこれだけだ。何度も何度も問題を見直し、間違いがないかも確認済み。無意味といえど、俺が今回狙うのは一〇〇点満点である。一つも凡ミスを犯す気はなかった。
 小笠原も俺の余裕っぷりをみて、当然だといわんばかりの顔をした。俺はこのクラスでの成績は中の上。小笠原の物差しでは十分予想できた結果らしい。
 だが次の瞬間、定年間近のベテラン教師の顔が引き攣った。俺はギョッとして、自分の答案を見る。嘗て答案の裏に魔改造ドラ○もんを描いて「お前は一体いくつだ」などと怒られた経験があるが、それ以降ラクガキなどしないようにしていた筈だ。
 小笠原の視線を確認する。その視線の先は俺の後方に向いていた。それでやっと、小笠原が何に嫌悪感を示したのかが察せられた。
「――ぐぬぬぬぅ……うおぉぉ……っ」
 ……何か、後ろから怪物の呻き声が聞こえるんスけど、先生。
 俺の後ろ。つまり席次番号でいえば俺から前に当たる人物が、其処には座っていた。出席番号が若い奴が後ろに据えられるのは単なる教師の気紛れだ。小笠原が俺の視界の後ろに消える。誤解を生まない為に、俺は振り向かない。
「おい、こら」
 本来試験中に生徒に声を掛けるのは問題だが、幸いこの場で再試験を受けているのは俺と、彼奴だけである。小笠原は呻き声を挙げる彼奴に(口調で判る)呆れながら言う。
「戌井、判らんからって、妙な呻き声を挙げるな」
 やっぱりテメーかよ。呻き声の正体は。
「うぅ、先生! この問題が判んねぇっ」
「……お前、今試験中だってこと、忘れとるのか?」
「教師だろっ。教えてく」
 パァンッ
「キャンッ」
 何かが破裂したかのような音と、戌井の悲鳴。出たな、小笠原必殺の小笠原アタック(思いつき)が。奴が何故かずっと持ち歩いている出席簿で聞き分けのない生徒を一撃で葬る技だ。因みに俺は今期だけで28発食らっている。
 予想通り、あの音の後、戌井は軽い悲鳴を上げただけで何も言わなくなった。小笠原は何食わぬ顔で俺の視界に背中を向けてフェードインしてくるのだった。ちらりと俺の答案を覗いてくる小笠原。またもやその眉間に皺が寄る。俺は危機感を抱き、もう一度答案を見返す。
(――おっと)
 やばいやばい、席次番号と名前を書いてなかった。これじゃあ何点取っても地獄行きだ。
 俺は中学から愛用しているシャーペンを握って、まずは自分の出席番号を書いた。そして……

 ――清宮 遊馬(キヨミヤ アスマ)。俺は、その名前を此処に記した。



――――――――――



 試験は昼前に終わった。
 満足に再試験を終え、校舎から出る。学校で他にやることはないなと、頭の中で確認しながら軽い荷物を肩に乗せる。顔を上げると、校門に背凭れる人影が見えた。――あれは。
 その姿を確認した途端、俺の中に意地悪な気持ちが芽生えてしまう。俯き加減に佇む彼女にそっと近付いて……
「……よっ!」
「はわぁっ。――吃驚したぁ」
 桃色の髪が校舎から吹き抜ける風でふわりと浮き上がる。仄かな良い香りが鼻腔をくすぐった。彼女は言葉通り俺に驚いた表情を向けると、それはすぐに照れたような笑みに変わる。その笑顔はもう高校生にもなるというのに、子供っぽかった。
 そんな彼女にこう尋ねる。
「まさかとは思うけど、待ってくれてたのか」
「うん、そうだよ。遊馬君」
 改めて俺に向きなおって、俺の問い掛けにそう肯定する。健気な仕草に俺は思わず自分の顔を手で覆った。ニヤついた顔を明日奈に見られたくはない。
 明日奈とは昔からの付き合いだ。普段は何処か抜けた雰囲気が漂っている娘だが、勉強が出来ない方ではない。今回の再試に呼ばれてはいない筈だった。
「でも珍しいよね、遊馬君が再試だなんて。遊馬君は勉強出来ない人じゃないと思ってたのに」
 明日奈が意外そうに言った台詞。冗談じゃない。俺はこの言い草には眉間に皺を寄せた。
「誰の所為だよ」
「遊馬君」
 びしり、と指で差される俺。明確な答え、とばかりに俺の名を答えられる。俺は悟った。悪意のなさこそ、最大の罪であると。
「忘れたのかっ? あれはお前が――」
 眼前に差された明日奈の指を、軽く掴んで退ける。論理展開の後に、誰のお陰でこうなったのかはっきりさせておこう、そう思った矢先。不意に明日奈の視線が俺から逸れる。
 ――その瞬間、何者かが俺の背中を思いっきり蹴りつけてきたのだった。

 俺は咄嗟に明日奈に向くベクトルを強引に逸らし、校門の壁に自ら激突する。受け身が取れず、思いっきり鼻を打った。
「遊馬君!?」
 明日奈の悲鳴。俺は鼻骨に皹でも入ったのではないかと疑い、鼻を押さえる。幸い、鼻血は出ていなかったが、ズキズキと未だに痛みを発している。
「よーぅ、遊馬〜♪」
 悪びれる様子のない、その荒っぽい口調を聞いただけで俺の頭の中にはある人物像が浮かび上がる。
 ……相手が彼奴なら、別に躊躇する必要はない。決して友好的とはいかない笑顔で俺は振り返る。
「――あ、戌井君」
 明日奈がそう呼び掛けたとおり、其処にはショートカットの黒髪まぶしい、悪ガキがそのまま育ったような奴が満面の笑みで立っていた。ただ、その笑顔には俺と同じく青筋が立ち、頬がぴくぴくと引き攣っていたが。
「……明日奈。今、俺のこと、戌井“君”って呼んだだろ」
「え、あ! ご、ごめんね。戌井君は女の子だもんねっ……あ。え、えと! えと!」
「も、もういい……。俺が明日奈にどう思われているか、今の一瞬でよーく判ったぜ……」
 戌井が髪を掻きあげながら声を震わせる。甘酸っぱい匂いが漂う。

 戌井は列記とした女だ。顔立ちや髪形はボーイッシュという言葉のまま。其れに加え、粗暴な口調と“俺”という一人称から男と思われがちだが、制服姿もそれなりに映える女子である。俺は殆ど女として扱ったことはないが。
 そんなことより、俺はこの女にひとつ、借りを返さねばならないのだ。明日奈の悪意のない一言に、まさか気になどしていないだろうが、戌井はいじけたように髪を弄っている。俺はそんな奴の顔を覗き込んだ。
「戌井君、たまたまだろうけど、君の足が俺に当たったんだ。何か言うべきことはないだろうか」
 戌井はキョトンとした表情を見せた後、キッと俺を睨み付ける。
「テメェだけは俺のこと、『戌井様』と、様付けして呼びやがれっ」
「何が様付けだっ。人を蹴っといて何言い出すかと思えば、それか!?」
「うるせぇっ。蹴ってねぇし態とやったわけじゃねぇしたまたま当たっただけだし」
「はぁ? おもいっくそ、蹴ったじゃねーかっ。じゃあなんだ、俺の制服に付いたこの靴跡は、一体何なんだ!?」
「自分で蹴ったんじゃね? 俺シラネ」
「じゃあお前の靴の裏見せろよ照合してやんよ」
 俺のこの追求に対する返答は考えていなかったようで、戌井はぷいっと視線をそらす。
「うっ。――な、なんだよっ、テメェが裏切ったのが悪ィんだろっ」
「は? 何が?」
「あんだけ言い聞かせたのに、満点取りやがってっ」
 戌井はそう主張して、育ちの悪い犬のように牙を剥く。
「……なんで今の時点で俺の点数が判るんだよ。エスパーか?」
「はんっ。小笠原がテメェの答案見て頷いてたからだよっ。因みに俺の答案見た時の奴の顔は、奥さんの浮気現場見たみたいな、現実を受け入れられてない顔だったぜっ」
 お前の答案って、目を背けたくなるものなのか。

「そんなことより、約束はどうしたんだっつってんだよっ、お前!」
 俺の目の前に鋭く指が差される。なんかデジャブだ。戌井は軽く上気していた。
 約束。明日奈をチラリと見てから、俺は戌井に言い放つ。
「お前なぁっ。『一緒に追試験落ちようぜ』って言われて頷いた憶えはねぇよっ、馬鹿!」
「ひでぇっ。俺達は運命共同体じゃなかったのかよ」
「お前なんかと運命共にしたくねぇよ。特にテストに関しては」
 粗雑で言葉の端々からですら女を感じさせたことのない戌井。俺が此奴を男扱いしないのと同じで、俺達の付き合いはまるで男友達だった。
 戌井は暫く不満そうにしていたが、やがて自分の身を振り返り、がっくりと肩を落とす。
「はぁぁ……俺の夏休みがぁ」
「でも、追試験落ちてたらどうするの。若しかして退学?」
 明日奈が無垢な瞳で核心を突いてきた。俺と戌井にとって、出来れば考えたくない問題を、ここに来て引き合いに出してきたのだ。思わず俺達は身震いした。
「ま、まさか……そんな、なぁ? 教師連中だって、お、鬼じゃないんだしよぉ……!? あって、補習だろ」
「でもあんまり悪いと退学になるって聞いたよ?」
 戌井の声に判り易く動揺が混じる。明日奈は口元に手を伸ばして、親身に(でも痛い所を)語る。
「でも、学校で認められる試験はこれだけだし……やっぱりレポート提出かな?」
「小笠原、レポートは出さないって言ってたぞ」
「嘘っ」
 戌井の顔が途端に青くなると、かすれた声で俺に追い縋ってくる。
「なぁ、なんとかならねぇかなぁっ? 何でもするからさぁ」
「いや、俺に言われても」
 そんな時だった。

「――およ? 楽しいメンツが揃っているじゃあないか」
 なんとなく憂鬱な雰囲気に陥っている俺達の姿を見付け、体格の良い男子が声を掛けて来た。
 ちょっとメンドくさい奴が来たな。
「あっ、“アイノ”君だ。部活帰り?」
 俺の気なんて知らない明日奈は、人付き合いの良さのままに奴に声を掛ける。明日奈に呼ばれたのに気を良くした奴は俺達の間にさりげなく入って来る。
「いいや。今、顔見せる所だよ、夢宮さん」
 アイノ ハカル。俺や明日奈、戌井と同じクラスのよく見知った顔が傍に寄る。体格も良いが性格も良いこの男は、勉強も出来て、部活でも中々の功績を収めているらしい。よく集会などがあった時校長から賞を受け取る姿が見られる。顔の方は自他共に認める中の下ランクだが、服のセンスは男女ともに頷ける。そんな訳で、そこそこ女子にモテる。あれだ。矢張り、人は見た目より内側の価値だ、とかそういう綺麗事を見事にその身で表した人間が、このアイノだ。神様に程々に愛された男とも言える。
 そんな出来のいい人間の何を、俺は厄介に思っているかというと……

「また清ミャーはワンコとドッグファイト?」
 言動が、とてもおかしいのだ。ユニークと言えばいいものだが、疲れていたりイライラしているときに此奴と話すと相当精神に来る。後、気に入った相手に変な仇名を付けるのだが、明日奈の事だけ仇名では呼ばない。冴えた仇名が思いつかないかららしい。以前明日奈にそのことについて尋ねられた時そう答えていた。その際明日奈が平然とした顔で「夢ミャーとか、あるよ?」と言ったのが自分的にツボにハマったのを思い出す。(因みにアイノは「その発想はなかった」と言って、俺に清ミャーを受け継がせた。)
 因みに戌井のワンコは誰が見ても明らか、名字の“戌”の文字からである。最近では戌井もアイノのワンコ呼ばわりに怒らなくなった。

「ドッグファイトはバックの取り合いが肝心だ」
「いや、何の話だ」
「体位の話」
「バックって言葉だけに限ってな!」
「後ろから激しく責め立てる点などではとても共通する。ありったけのたまをぶち込むという意味で」
「なんて有り難くない共通点だろう」
「共通点といえば、東北の闘犬競技では、相手の後ろに回って腰を振ったら“変態”といって反則負けになるそうだ。しかも、一度変態負けした犬は癖がついてしまうらしい」
「変態負けってなんだよ」
「清ミャーも気をつけないと」
「何に!? 今の話の何処に俺と関与する部分が!?」
「だって清ミャーは変態で負け犬じゃないか。癖がついてたりしたら、見ていられない」
「よし、お前歯ァ食い縛れ」
 此奴はいつもそうだ。俺が突っ込み気質だと知って、下ネタを絡めてからかってくる。しかも女子を目の前にしてこの有様だ。
 俺の黄金の右をひらひらと躱しながら、アイノは戌井に告げる。
「再試験の結果だけど、心配ないと思うぞ」
「え? マジか」
「ああ。独自のルートから手に入れた情報によると、ワンコは無事通れたみたいだ」
「良かった〜。補習なんてあったら、まともに部活出来ねぇし」
 二年の戌井は陸上部のエースだ。夏休みが近いともなれば、県大会も近い。補習にかまけて練習を疎かには出来ない、ということだ。
「おいおい、信用できるルートなのか。それ」
「小笠原先生が言っていたのを盗み聞いた」
「……」
 矢鱈小回りの利く奴だ。するとアイノは踵を返す。
「じゃあ、俺はさっき言った通り、部活に顔見せに行くところだから」
「そっか。じゃあ、また今度ね、アイノ君」
 明日奈が小さく手を振る。俺と戌井も軽くアイノに挨拶を返すが、その後は打ち合わせしたかのように全く同時にずいっとお互いの顔を見合わせた。
「……彼奴、何の部活に入ってたっけ?」
「なんだったっけなぁ……ええっと、なんかよく賞状とかもらってっし……」
「剣道部だって、この前言ってたじゃない」
 明日奈の言葉に、俺達は頷く。そういえばそうだ。剣道部と言えば、あの平成の侍と(アイノに)いわれるイサミ先輩が主将の。……アイノとイサミ先輩が上手くやりとりしている場面が一切思いつかないんだが。
「じゃ、帰ろっか。戌井君も、今日は部活ないんでしょ?」
「っ!? ……」
 明日奈さん、アンタって人は――。

―――――

 色々あって意気消沈している戌井。肩をがっくりと落として、最早前を向く気力すらないかのようだ。
「……俺、そんなに女っぽくねぇかな……」
 突然そんなことを言い始める。どうやら、気にしていたようである。
「きっと明日は良いことあるよ。だから、元気出して?」
 明日奈の純粋な言葉。戌井の身体からさぁっと色が抜けていく。そんな戌井を心配してか、明日奈は俺にこっそりと耳打ちする。
「戌井君、どうしちゃったのかなぁ? さっきから元気ないけど」
「もう許してやれよ」
「え? 許すって、何を?」
「……」
 無垢であることほど凶暴なことはないと、この時知った。明日奈はなお自分のしていることの残酷さに気付かず、首を傾げている。
 ところが、だ。突然戌井が足を止める。俺と明日奈もそれに気付き、戌井に振り返る。いつの間にか戌井の身体には色が戻っており、しかもその瞳はキラキラと輝いていたのだった。
「おい、どうしたん――っ」
 俺が声を掛けた瞬間、突然戌井が飛び上がる――。近隣の学校の間では一番お洒落だといわれている西純高校。スカート丈の短さもその特徴の一つに数えられる。それが宙に舞い、ふわりとひらめく。ベールに覆い隠されていた、青と白のストライプ柄の真実が、俺の視界に飛び込んでくる。
 そして……顔面に衝撃走る。
「へぶぁっ」
 戌井が俺の顔面を足場にして、更に高く飛び上がる。後ろに倒れ込む俺。固いアスファルトに背中と後頭部を打ち付け、目の前に火花が飛ぶ。
「遊馬君っ、大丈夫」
 明日奈が駆け寄ってきてくれる。朦朧とする意識の中、天地逆さまの日常の先に見たものは、しゃがみ込む戌井の姿。そしてその腕に抱き抱える、謎の茶色い物体。
「ニャーッ。可愛いーっ」
 そして、聞き慣れぬ黄色い声。俺は意識を取り戻した後、目を丸くするばかりだった。



「捨て犬かな?」
 明日奈がそう言うと、焦げ茶とチョコレート色の混ざった小さな物体は返事をするようにキャンと鳴いた。
「ひでぇことする奴もいるぜっ。こんな可愛い仔を置き去りにして寂しい思いをさせるなんて!」
 怒りに瞳を燃やす戌井に抱かれた仔犬は、「今まで寂しかった」と言わんばかりに戌井の服の袖を噛みくちゃにし、身体全体で甘えてくる。その仕草に戌井は随分と幸せな表情になる。俺はそんな戌井の一面を意外に思いつつ言った。
「……いや、何か、飼えない事情があったのかもしれんぞ」
「事情があってもだっ」
 くわっと睨まれる。まるで俺が捨てた本人と言わんばかりの言い草だ。
「それにしても、すっかり懐いてるね、その仔」
 明日奈が腰を屈めてそう言った。捨て犬はすっかり戌井の袖に夢中で、戌井も涎でズルズルになっていく袖の事など全く気にも留めず、仔犬の頭を撫でるのだった。
「ああ。寂しかったんだよな〜? ずっと、置いてけぼりにされて」
「……もしかして、戌井って動物、好きなのか?」
 俺がそう尋ねると、真顔でこう言われる。
「動物嫌いな奴がこの世界に居るのか?」
「……いや、居ない訳じゃないとは思うけど」
「だったら俺がそいつらの根性を叩き直してやるっ」
 まんざら冗談じゃなさそうなのが怖い。
「でもこの仔どうするの?」
 明日奈が尋ねる。
「勿論、俺が責任もって飼うよ」
 戌井が犬を抱き締めて言う。
「お前ンち、マンションだろ」
「関係ないね!」
「大有りだろうが」
 確か戌井の家はペット禁止の筈だ。隠れて飼おうにも、戌井にこそこそと生き物を飼う器用さがあるとは思えない。下手したら今以上に悲惨な生活が、この捨て犬には待っていそうだ。
「明日奈のトコで飼えないのか?」
「う〜ん、と。ごめん、お母さん達に相談しないと決められない、かな」
 困った顔を見せる明日奈。戌井の目が深く落とされる。
「いいって、俺が飼うから。……両親には黙ってだけど」
 両親にも隠すつもりかよ。同居人からはどうやって隠しきれるんだよ。無理だろ、どう考えても。
 其処でふと、自分の家庭環境を思い浮かべてみる。俺の家は一戸建ての庭付き。複雑な事情もあって親はいないが、最近難しいお年頃らしい妹の理梨が居る。アメリカから帰ってきたばかりの理梨には、まだ日本で友達も少ないわけで。
 ……これは、丁度いい機会かもしれない。
「俺の家で飼おうか?」
 そう言った瞬間、戌井が呆気にとられた顔を向ける。
「え? い、いいって……。べ、別に、お前になんかに頼りたくねぇし……」
「頼れって言ってんじゃねぇよ。丁度、犬飼いたいな、て思ってたトコなんだ。ウチには妹もいるし」
 犬を飼うのを切欠に、昔みたいに妹と家族として接していければという計算だ。家にいる家族は妹だけ。思春期か何かは知らないが、妹といつまでも冷めた会話をしていたいわけじゃない。
 戌井は驚いたような表情をしていたが、やがて安心したように笑顔になる。
「良かったなぁ。優しいお兄ちゃんに飼ってもらえんぞー」
 そう言って仔犬の頭をくしゃくしゃ撫でる。仔犬は遊んでもらえると勘違いして、戌井の手に甘噛みを仕掛けている。
 ――優しいお兄ちゃん。戌井の口から出た俺に対する印象に、思わずドキッとした。戌井って、俺のことそう思っていたのか。改めて、気恥ずかしいような。いや、馬鹿だな。俺、何勘違いしてんだか。戌井は、仔犬の目線から言っただけなのに。

「……俺にも触らせて」
 俺は気を取り直し、これから一緒に暮らそうという相手に挨拶するつもりで手を伸ばす。仔犬は俺の手を舐める。戌井は立ち上がり、俺にそっと仔犬を渡す。俺の腕の中で仔犬は少し居心地悪そうに固まってしまった。
「あーあ。緊張してるぜ。撫でてやれよ」
「ど、どうやって」
 実は俺、動物を触るのは初めてなのだ。扱い慣れた人は動物を撫でるくらい造作もないことだと思うだろうが、この年になって初めてだとどうしても臆病になる。
 戌井はそんな俺を嗤うわけでもなく、何処か微笑ましげにこうアドバイスしてくれる。
「取り敢えず頭とか撫でてみろ。その内、気を許したら、自分から何処を撫でて欲しいのか教えてくれるから」
「……成程」
 ワンとしか言えない犬がどうやって教えるんだと思ったが、まぁその辺はよしとしよう。俺はこの小さな身体を撫でる。さわさわとした感触が肌に伝わる。くすぐったい。
 仔犬も俺の腕に慣れたのか、俺の身体によじ登り、頬をちろりと舐めてきた。突然のことに顔を背けるが、妹の為には此処で嫌がっていられない。すぐに顔を戻すと、今度は口を舐められる。ファーストキスはもう経験済みだが、なんだか仔犬の無垢なキスには胸が温かくなった。

「……あ、あのさっ。なんか色々と、あんがとな」
 何かに慌てる様子で、戌井が改まって言う。
「ん、ああ。別にいいって。それに、気になるんだったらウチに遊びに来てくれよ」
「え!?」
 犬を揺すり上げて言うと、戌井は尋常じゃないくらい驚く。
「いや、俺と妹じゃ世話の仕方なんて判んないし……。来てもらった方が助かるんだけど」
「あ、ああ……」
 どうしたのだろうか。自棄に緊張したような顔して。
「兎も角、明日とか暇かな? 色々講義にあずかろうと思うんだけどさ」
「お、おう!」
 やたら気合いの入った返事もらえました。
「じゃ、じゃあ……俺、ここだから」
 ふと分かれ道に差しかかると、戌井が視線をあちらこちらに飛ばしながら口に出した。こんな風に下校して友達と別れる瞬間の道というのは、なんとなく物悲しいものがある。俺は腕の中の仔犬の視線を戌井に向ける。
「おう。また明日な」
 約束したかどうかは兎も角、俺はこう言った。戌井はいつもの調子とは違う、そそくさと逃げるように自分の帰路に着いたのだった。
「どうしたんだろう。あいつ、知恵熱でも出したのか」
 確かに、アイノの言葉を鵜呑みにすれば、今日の試験で戌井はいつも以上の実力を出したのだろう。知恵熱を出してもおかしくないと、半分本気で口にしたつもりだった。
「ふ〜ん……。そっかぁ、慧ちゃんもなんだ」
 隣で明日奈が含み笑いを見せる。
「ん、何が?」
「ううん。清ミャーも罪な男の子だな、て思って。何のためらいもなく女の子を家に誘っちゃうんだもん」
「どうでもいいけど、清ミャーって呼ぶな」
「いいんじゃないかな。可愛いよ? 清ミャン♪」
「アレンジされた!?」
 明日奈はそう茶化したが、飽くまで俺にとっては、戌井は女としてではなく友達として誘ったつもりだった。



――――――――――



 まだ頭がくらくらしている。風呂に入っても、身体を冷ましても、頭からついて離れない。パジャマ姿でベッドに倒れ込む。お気に入りのクッションと新品のぬいぐるみを一緒に腕に抱える。やわらかいものを抱き締めていると一先ず落ち着くけど、なんだかもっと寂しい気分にもなってくる。
「遊馬……」
 今日も名前で呼んでくれなかったな。
 なんで明日奈は下の名前で呼んで、俺だけ呼ばないんだ。まぁ、あいつらは幼馴染だからかもしれねぇけどサ。なんていうか、俺は彼奴のこと下の名前で呼んでるのに、不公平だ。いや、俺が勝手に呼んでんだけども。
 ふと、抱き締めるぬいぐるみと顔を合わせる。小さい犬のぬいぐるみだ。今日拾った仔犬と似て焦げ茶色をしている。
 それでまた思い出してしまった。遊馬に頭を撫でられ、抱き締められ、それでは飽き足らずにキス。……キスを、した。
「くぅ〜っ。――犬になりてぇー!!」
 今の今まで頭から離れなかった、仔犬だから許されるスキンシップの数々。あんなに遊馬とくっついて、あんな事が出来るなんて、羨ましすぎる。今頃、あの仔犬は彼奴の家でたっぷり可愛がってもらえているだろう。
「あぁ……、俺が犬だったらなぁ……」
 俺だって、可愛がってもらいたい。きっと優しい彼奴だったら、犬の俺にだって分け隔てなく接してくれる筈だ。それに目一杯甘えさせてくれるし、たくさん可愛がってくれるに違いない。
 考えれば考えるほど、悪くない。寧ろ、願ったり叶ったりだ。俺の願望が、犬になって満たされるのなら……。
「……」
 途端に正気に戻る。俺、馬鹿だ。犬になろうったって、なれるわけない。それに犬になれたとして、あいつと一緒にいられるわけじゃない。それに部活だって。今まで打ち込んできた陸上で表彰台に立ちたい。俺はそう想い続けて此処までやってきたのだ。
 でも最近を振り返ってみれば、スランプだった。遊馬のことで頭が一杯で、いまいち部活にも集中出来ていなかったのは自分でも判っている。コンマ下の数字を汗水たらして削る為の時間よりも、遊馬と一緒に居られる時間の方が大切だと思い始めていることも。
 ――俺、大丈夫だろうか。このままじゃどっちも中途半端なんじゃないのか。そんな不安に毎日心が押し潰されそうになる。思わず、ぬいぐるみを強く抱き締めた。

 ……こんな、こんな気持ちになるなら、別の事を考えよう。そうだ、楽しい事。そういえば明日、あいつの家に行くんだ。その事を思い出すと、思わず顔が綻んだ。
「明日が楽しみだ……」
 そう自分に言い聞かせながら、意識は沈み込んでいった。



――――――――――



「こんちわー」
 威勢の良い声がインターホンに響く。
「よぅ」
 出迎える俺。戌井はシャツに短パンといったまるっきり男のような格好で玄関先に立っていた。俺の姿を見た戌井は急に視線を下げると、何かをさぐるように一言を発する。
「あ、あの仔……元気か?」
「ああ。すっかり妹にも懐いてさ。まぁ、あがれよ」
「……おう。お、お邪魔しまーす」
 なんとなくぎこちない戌井の表情。この前明日奈が言ってから気付いたが、戌井だって女性なのだ。男の家に招かれるというのは緊張するものなのだろう。俺は緊張を解いてやろうと思って声をかけようとするが、逆に戌井は急ぐように俺に確認する。
「な、なぁ。今日、妹さん……どうしてる?」
「ん? ああ、今買い物で出掛けてるよ」
 それを聞くと、戌井は何処か嬉しそうに「そっか」と返す。変な事を訊くもんだ。戌井は訪ねる家に相手の家族が居ると嫌なのだろうか。
(妹が居ないって事は、暫く二人っきりっ!? ……よっし! ナイス、タイミング!!)
 ……今、ガッツポーズしてなかっただろうか。

 俺は兎も角彼女に上がってもらう事にした。其処でまずは居間に通すのだが、入ってきた途端に戌井の表情が凍りついた。
「――あ、戌井君、来たんだー」
 居間では、仔犬にじゃれつかれた明日奈が満面の笑みで戌井に向く。戌井は肩を震わせ、声に動揺を混ぜながら言う。
「……な、なんで明日奈がお前ンちに」
 そうか、幼馴染と言えど、明日奈がよくウチに出入りしているのは意外かもしれない。俺は一先ず誤解と問題のないように、こう説明する。
「明日奈とは家が近所で、よく遊びに来てるんだ」
「えへへ。朝起こしにいったり、お弁当作ってあげたりしてるんだよー?」
 余計な一言を付けたす明日奈。戌井は一瞬ぽかんとした後、引き攣った笑顔で言う。
「へ、へぇー。お、お前ら……仲、良いんだな」
「うん!」
 明日奈が頷くと、戌井は大きく咳払いした。
「ご、ごほんっ。……で、でもさっ。おかしくねぇか? 幾らなんでも、年頃の女の子が男の家にって」
 すると明日奈は俺の前でまるで当然の事のように、こう言い放つ。
「? 好きな男の子の傍に居るのが、何か悪い事かな?」

 一瞬、耳を疑ったのは戌井だけではない。俺は明日奈の頭の中身を本気で疑った。俺達は日本で生まれたごく一般的な高校生でなければならない。
 少なくとも、今はまだ――明日奈の正体が周りに知られる訳にはいかないのだ。
「しゅ……っ!? すすす、好きな……男!?」
 対して戌井は茹でダコの様に赤くなりながら、俺と明日奈に視線を行き来させる。そして俺達に指を差し向けて叫んだ。
「まさか……お前等、付き合ってんのか!?」
 俺は頭を振る。確かに以前までの明日奈に気があったのは事実だ。だが、今となっては素直に頷けない事情がある。
 だがそんな俺の気も知らず、明日奈は答える。
「んー、どうなんだろうねー。私は遊馬君の事大好きなんだけど、遊馬君、最近私に冷たいし」
「冷たいって、お前なぁ。大体、大事な試験の日にまで盛り出すお前が……――っ」
 あ、今俺、思わず墓穴掘った? 戌井が目を点にして俺を見詰めてくる。
「……盛り出す? え……盛るって……?」
「わっ。ちょ……っ。い、今のはだなぁ!」
 そう、盛り出すってのは……。……だ、駄目だっ。上手い言い訳が思いつかない!
 汗が噴き出してくる。なんでこんな事で、俺が追い詰められなければならないんだ。

 そんな時、徐に明日奈が立ち上がると、俺の身体にそっと擦り寄ってくる。
「――そういえば最近、キスもしてないよね……?」
 その一言を聞いた刹那、明日奈の香りが近付いてきて、口元に柔らかい何かを押しつけられる。そんな認識が追い付いた所で、口の中に熱の塊が捻じ込まれる。いやらしい音が響く。明日奈の吐息。香り。僅かだが、この甘美な感覚に身を委ねたいと願う自分が居た。
 だが其処でふと向けた視線の先。戌井が身を退いて、口元を震わせている。其れを見て一気に正気が舞い戻り、明日奈の肩を掴んで唇を引き剥がす。
「っぷは! な、何してんだよっ。戌井の前で……!」
 戌井の眉がひくりと動いた。明日奈は淫魔の笑みを浮かべる。
「だって最近の遊馬君、冷たいから」
「お前がそうやって、人目も憚らずにキスだのなんだのやるからだよっ」
「もしかして試験の日に無理矢理エッチしたの、怒ってる?」
「――!」
 此奴っ。戌井の前で、なんて事を! 思わず戌井の表情に目を向ける。彼女は放心したように俯いていて、どんな顔をしているのか判らなかった。
「だって前の日の晩、遊馬君、シテくれなかったから我慢出来なくなっちゃって。でも、立てなくなっちゃうほどするつもりじゃなかったんだよ……っ?」
「っ、シテやらなかったのは悪かった! だけどなぁ、そんな事戌井の前で言う事じゃ……!」

「――あのさ!」



 戌井の声に遮られ、次の句が出なくなる。テンパッている自分を自覚した時、今までの俺の台詞こそが、明日奈の言動に信憑性を与えるものだと気付く。俺は、何故か知らないが、今まで積み上げてきたものが崩れていくような感覚に襲われ、立ちすくみ、言い訳を言う気すら湧かずにいた。
 そして戌井は、そんな俺にこう言い放った。
「お、俺! ……じゃっ、邪魔みたいだから、さ。……帰る、わ……」
「え? ちょ、ちょっと待てよ……!?」
 其処で戌井に何か言ってやらなければならない気がして引き留めようとする俺。だがそんな時、玄関の扉が開く音が聞こえた。
 沈黙の帰宅。――妹の理梨が帰って来たのだ。
 俺はその瞬間、戌井を引きとめるよりも理梨の帰宅に反応した。戌井は俺の視線が一時だけ自分から逸れたのを敏感に感じ取ったようで、俺の手からするりと抜けだし、帰ってきた理梨の横を擦り抜けて出て行ってしまった。玄関まで追った俺は戌井の背中を見送っただけ。じきに酷い後味の悪さに吐き気を憶える。
「サイテー」
 状況も知らない筈の理梨からの一言。
「お前は何も知らないだろうが」
「バカ遊馬が救いようのない馬鹿だって事は知ってる」
「………」
 いつもはこの生意気な妹に、昔仲の良かった頃の話を引き合いに出して言い返してやる所だが、今回だけはその通りの様な気がして、閉口するばかりだった。



 そうしてから暫く、戌井との関係は疎遠になってしまった……。



――――――――――



 滑走する。乾いた地面を蹴る。左に曲がる白線だけを見据えて、息が乱れぬように、自分のリズムだけを刻み続ける。
 やがて道は閉じる。これ見よがしにゴール線を踏み付け、足を止める。不足した空気を目一杯吸い込んでから、タイムキーパーを睨む。
 ――愕然とした。今日までの努力で削った筈の時間が、元に戻っている。
 有り得ない。どうして。俺はこんなんじゃないのに。こんなんじゃ……。
 膝を抱え、汗が頬を伝って顎から滴る。息がすっかりあがってしまっている自分に更に嫌気が差した。
「先輩、大丈夫ですか…?」
 一年の女子が、俺にそう声を掛けてきた。俺は心配される顔をしていたらしい。此処で平然と出来なくちゃ駄目だ。俺は必死で笑顔を作る。
「大丈夫だって。……喉乾いちまった。ちょっと、水飲んでくるわ」
 そう言って、その場を後にする。人気のない水飲み場に駆け寄って、蛇口を捻る。冷たい水が勢いよく口の中を満たし、喉を通って全身に染みる。
 冷たい。けど、満たされた気はしない――。そんな風に思いながら、水を頭に掛けてみる。髪が濡れて、身体が冷えていく。

 そんな時、横に薄桃色のタオルが差し出される。俺はそれを受け取り、顔を拭く。「あんがとな」とお礼を言いつつ後輩にタオルを返したつもりだった。
 だが其処に居たのは……明日奈だった。
「慧ちゃん」
 そう呼ぶ明日奈。俺は、あの日から少し疎遠になっていた明日奈が突然現れたのに戸惑うだけだった。
「……な、なんだよ……っ」
 真っ直ぐ明日奈が見られない。俺はあの時の光景をまざまざと思い出す。明日奈の荒い息遣いと、女の子ではなく最早“女”としての目。それに蹂躙される、遊馬の姿。きっとあの二人はいつもああしているんだ。ああやって、俺の知らない所でもっと深く愛を確かめ合っているんだ。そう思うと、どうしても見られない。明日奈がどんな事を考えて俺の前に立っているのか判らないけど、今彼女の瞳を覗いてしまうと、自分の軸がぽきりと折れてしまいそう。
 そんな風に俺が怯えていると、明日奈はずいっと俺に瞳を突き付ける。思わず俺は身を退く。
「な、なんだよ……。何か用か?」
「……慧ちゃんって、遊馬君の事、好きだよね?」
 突然、そう訊かれた。もうどう答えていいのか迷った挙句、苦しく頷くだけだった。
 すると明日奈は嬉しそうに笑う。
「やっぱりっ。やったぁ。じゃあ私達、仲間になれるね?」
 俺は言い表しがたい違和感を覚えた。普通、自分と同じ相手を好きだっていう女が目の前に居て、喜ぶか? そもそも、“仲間”って。そんな漠然とした疑問など頭の片隅に追いやって、目の前の出来事に目を疑った。
 一瞬、何が起きたのか判らなかった。明日奈の背中からコウモリの翼のようなものが出てきて、制服がみるみる内に消えていき、代わりにSMの女王様の様な妙な格好へと変わる。夕日に照らされる明日奈の影が見る見る変化していき、やがて何時もの明日奈とは別人のような女が、其処に立っていたのだった。
「――!」
(ぺちっ、くちゅ、れちゅ……っ)
 声は、出なかった。正確には、声を上げる前に明日奈に唇を塞がれた。水で薄く潤った俺の口の中に、粘っこい唾液を絡みつかせた舌が入り込んでくる。身体を強く抱きしめられ、逃げられない。追い出そうとする俺の舌を、まるで弄ぶように擦り合わせてくる。
(くちゅ、くちゅ……んちゅ。ぬちっ)
 暫くして明日奈が離れる。お互いの下唇に糸が引く。明日奈は荒い息遣いで俺を見詰める。その視線は、女である俺でも判る程エロっぽい。ていうか、初めてのキスが、明日奈となんて……。激しい喪失感とともに、遊馬の顔が浮かぶ。涙まで出てくる始末。
 明日奈はそんな俺にうっとりとした表情を傾けてこう語る。
「ねぇ……。私と今したコト、遊馬君とも出来る方法、教えてあげよっか……?」
 明日奈の口から、無垢な子供を誑かす様な、そんな台詞を聞く。
 だが俺は思わず反応してしまう。今したような事。今さっき奪われたファーストキスの残像が、遊馬に入れ替わった。……顔が熱くなる。明日奈はそんな俺の様子を楽しそうに眺めている、と思っていると、不意にこう口を開いた。
「見て判ると思うけど、私、人間じゃないんだ」
「人間じゃ、ない……?」
「うん。サキュバスなんだよっ?」
 サキュバス。ゲームなんかで偶に出てくるエロい魔物。男を魅了するのが得意。俺にとってはその程度の知識しかなく、目の前でそう言われても実感が湧かない。だが明日奈はゆったりと腰を捻る。俺の目の前に何か蛇の様なものが鎌首を擡げる。
「ほら。これ、尻尾だよ。自由に動くんだよ、これ」
 しなやかなそれは、俺の頬に寄り添い、そのままつーっと俺の首筋を撫で降ろし、汗で濡れた体操着の中に潜り込んだ。未体験の感触に気持ち悪さを憶えるが、何故か俺は明日奈の目に見詰められているとそれを払う気にはならなかった。
 明日奈の尻尾は俺の鎖骨辺りをうねうねとのた打ち回った後、俺の敏感な部分に触れるか触れないかの所を這う。
 焦らされている。だが不覚にも、俺は次第に息が荒くなり、頭が変になって来ていた。
「はぁ、はぁ……」
「慧ちゃん……今、とっても可愛い顔してる。これなら遊馬君も喜んでくれるよ……」
 明日奈の口から出た言葉に、反応する俺。
「喜ぶ……? 遊馬……が……?」
「うん。慧ちゃんが素直に私達の仲間になってくれるんだったら、遊馬君もきっと喜ぶ筈だよ。だから、仲間になろ。一緒に遊馬君を目一杯喜ばせてあげよっ?」
 遊馬が喜ぶ。俺がサキュバスになれば。明日奈みたいになれば……。徐々に思考が麻痺していくのが判る。洗脳されていっているというのがはっきりと判る。間違っているとも判っている。尋常じゃないというのも、判っている。だけど、俺の身体はそういうお利口な考えを無視して、こう口に出すのだ。
「……遊馬が……俺を、見てくれるなら――」
 明日奈は子供っぽく無邪気に笑った。
「じゃあ、体育倉庫の方に行こっか……? あそこなら、滅多に人は来ないから」
「……ん」
 明日奈が俺の手を取る。誰も来ない場所で、俺は何をされてしまうのだろう。一瞬、後悔と共に恐怖が湧きだしてきたが、それは直に淡い期待に変わる。どうかしている、と頭で判っていても、俺は明日奈の手を振り解けなかった。
 俺達は、誰も来ない体育倉庫に足を踏み入れる。目の前には体操に使うマットが敷かれてある。倉庫の扉が無骨な音を立てて、光を閉ざしていく。

 ――ガラガラ……ガシャンッ

「――」
「あ……」

 くちゅ、という水音が響く。深い闇だけが、俺を包み込んでいった。



――――――――――



 戌井と疎遠になってから、暫くが経った。相変わらず学校でも目を合わせるとすぐに視線を背られてしまう。俺は、あの一件以来気恥ずかしい気分がしながらも、戌井とは以前と同じように接していきたいと願っていた。

 そんなある日の事。ぼんやりしていた俺の横に珍しく、明日奈ではなくアイノがやって来た。
「なぁ、清ミャー。最近此処らで出回っている噂は聞いているか?」
 俺は一応初耳なので「知らない」と答える。此奴に構うより、戌井との依りを戻したいと考えていた俺は、話し半分でアイノの話を聞いていた。
「えー、最近は何処もその話題で持ち切りだぞ」
「そうかい。でも今、俺それどころじゃ」
「――狼、だそうだ」
 アイノは俺の言葉を剣呑に遮った。そして俺に対して不気味に笑む。
「近所で、夜中に出歩いていた若い女性が何人か襲われたらしい。ウチも陸上部の後輩と同輩が襲われたとさ。丁度今、その二人は無断欠席しているし」
 成程。噂だけじゃなく、タイミング的に無断欠席者が出た事が噂に拍車をかけたらしい。
「てか、狼って……日本では狼は絶滅してんだぞ」
「俺も実際に見た訳じゃない。襲っているのは女性ばかり。共通点は、美人というだけ」
「美人……って、何の基準だよ」
「実際、今無断欠席している二人は陸上部でも屈指の美少女だったそうだ。ま、噂は噂。大した意味はないだろうが」
 溜息を吐きながら、アイノは俺の机に肘を乗せて俺に迫る。

「じゃあ、本題に移ろうか」

 そう言った。端から神妙な顔をしていたと思えば、これか。
「夢宮さん、何か言っていなかったか?」
「何も。第一、理梨の件から明日奈にはちゃんと言って置いている」
「そうか」
 アイノはあっさりと引き下がる。俺はサキュバスでも大切な幼馴染が疑われたのにいい気分はしなかった。アイノにこう言って置く。
「てか、お前な……。なんでもかんでも、明日奈が絡んでると思うなよ。確かに明日奈はサキュバスだし、俺等とは違うんだろうけど」
「思っていないよ。現に、巨乳メ……逢間さんは、夢宮さんとは違うサキュバスが絡んでいた。なんでもかんでも、とは思う由もない」
 アイノはそう言って、俺に鋭い目を向けてくる。そう。アイノはこの世界に、魔界からのサキュバスが入り込んできた事を知っている数少ない人間の一人なのだ。しかも知っているだけじゃない。彼女達、サキュバスに対抗する手段も持っている。俺が彼女達にとって厄介な退魔の力を持っているという事ですら、俺達が何も言わない内に此奴は感付いた。感付いて、俺の周りでサキュバス関連の事件が起こる事を予言した人物。
 戌井と疎遠になっている間起こった事件、佐久耶や理梨のサキュバス化に対して陰で手段を講じてもくれた。今でも二人はサキュバスである事に変わりはないが、結果的にサキュバス化による人格の変貌は抑えられている。

 俺はぼんやりと過去を思い出す。
 俺は好意をもってくれている二人のサキュバス化を拒んだ。変わらぬ日常を望んだ結果、そうなったのだ。
 だが理梨の場合は俺も迷った。サキュバス化の影響とは言え一時的に理梨とは昔と同じ、いや、それ以上に仲良くなる事が出来たのだ。だからサキュバスのままで……このまま理梨と幸せに暮らしていければ。そんな思いがよぎった。だけど、生意気な妹が嫌いだなんて気持ちは全くなかったが、遠まわしにそう言っているような結果に俺の示す行動は一つだった。
 理梨は理梨であるべきだ。それと同じように、佐久耶も佐久耶であるべき。ありのままの君で居て欲しいと願い、二人のサキュバス化を拒んだ。今でもその選択は自分でも誇らしく思っている。
 ……まぁ、理梨の場合は元の関係に戻ってしまったのが今では少し後悔していたりもする。でも最近は普通に口を効いてくれたり、ご飯を作ってくれたりしてくれて、激しく俺を拒絶する事自体はなくなった。実際はサキュバス化以前の関係よりは何百倍もマシな事になっているのだが。

 しみじみとそう感じ入っている俺を、アイノの溜息が現在へと引き戻す。
「まぁ、今騒がれているのは、狼は狼でも……狼“男”だからな。端からサキュバスが関わっているとも思ってないのだけど」
「なんだ、それを早く言えよ。……てか思ったんだが、魔界から男の魔物とかは出てきてないのかな」
 狼男と聞いて、ふと思いついた事を尋ねてみる。こんな答えが返ってくる。
「来ていたらまずお前は無事じゃない」
「……そうだよな」
 今までサキュバスだけが確認出来ているというだけで、今後別の魔物が来るかもしれない。サキュバスはエッチなだけだからいいけれど、凶暴な魔物を差し向けられたら、今頃墓の下だろう。そんな風に思うと、俺はなんて運命を背負いこんでしまったのかと嘆く。
「はぁぁ……。もし、男の魔物が来るとしたら、どんな奴だろう」
「青つなぎを着てベンチに座っていると思う」
「生き残れる気がせんな」
「まぁ、ホントかは知らないが、“あっち”に男の魔物はいないそうだから大丈夫だろう」
 それはそうと、俺は時計をちらりと見る。放課後にこうやって駄弁るのもいいが、アイノは何時も通りの用事がある筈だ。
「アイノ。そろそろ時間じゃないか?」
「ん? おう。……じゃあ、何かあったら連絡をくれ」
 まるで何か起こるとでも言うような別れの一言。思わず寒気がした。
 アイノには彼女がいる。ずっと入院しているそうだが随分ラブラブだそうで、面会時間に遅刻した次の日のアイノは必ず身体の何処かに包帯を巻いて学校に来るくらいだ。何故か全く羨ましくない。
 アイノが立ち去ったのを見計らってなのか、明日奈が俺の傍に現れる。
「遊馬君、一緒に帰ろー?」
「ああ」
 俺は荷物を纏め、鞄を肩に掛ける。ふと、まだ帰っていない様子の戌井の方を見た。……気の所為だろうか。今一瞬、戌井の頭に猫か犬の耳のようなものが見えたんだが。目を擦ってみると、どうやら寝ぐせでピンと跳ねた髪を見間違えたようだ。
 キチンと寝ているのだろうか、戌井は。最近、授業中いつもより露骨に居眠りしているが。



――――――――――



「遊馬ー。ハーゲンダッツ買って来て」
 リビングで拾った犬に構ってやりながら、理梨が命令して来る。言っておくが、風呂上がりなのは俺の方だ。風呂あがって早々自分のものではないアイスを買いにコンビニに行く気に、誰がなろうか。
「風呂上がりの兄に、買いに行かせる気かっ」
 そう口答えすると、理梨がキッと俺を睨みつける。
「バカ遊馬こそ、こんな夜遅くに可愛い妹を一人で出歩かせる気っ? アメリカじゃ自殺行為よ!」
「此処は日本だ」
「でも最近、狼男が出るって」
「狼男はルーマニアだ」
「いや、そうじゃなくって。遊馬、狼男の噂、知らない?」
 急に不安そうな表情になる理梨。そういえば丁度、放課後にその話をアイノとしていたのを思い出す。
「ああ、あの噂か。人から聞いただけだから、詳しくは知らないけど」
 冷蔵庫から牛乳を取り出し、正しい姿勢でパックに口を付けて飲み干す。それを見て理梨が嫌な顔をする。
「やだ、私も飲むんだから口付けないでよッ。汚い」
「む。悪い」
 親父は牛乳なんて飲まない。牛乳を飲むのは俺一人だったので、牛乳パックの口飲みはつい癖になっていたのだ。
「兎に角、そんなの噂だろ?」
「でもッ、ホントに出たらどうすんのッ」
 理梨がそう言いながら、真剣に俺の瞳を見詰める。俺は牛乳を仕舞いながら答える。
「その時は俺が理梨を守ってやる」
「……ッッ!!」
 次の瞬間、目の前の景色がぶれた。衝撃が頭を揺らす。理梨が大切にしている(時に凶器に使用される)くまのヌイグルミを投げ付けられたのだ。
「うっさい! バカ遊馬の癖に、何言っちゃってるの!? 格好付けてるつもりかも知れないけど、ぜんっっぜん、格好良くないんだからねッ!」
「お前、俺がプレゼントしたくまのヌイグルミを……」
「うるさいっ。さっさとアイス買いに行きなさーいッ!!」

 ……こうして、俺は半ば強引にアイスを買いに行かされる羽目になるのだった。

―――――

「………」
 遊馬が出て行った直後。さっきまで遊馬が飲んでいた牛乳パックの前で息を荒げる理梨の姿。
「……遊馬、と……間接、キス」
 足元に仔犬が駆け寄るが、理梨はそれにも目をくれずに牛乳を口飲みし始める。
「ん……ごく、こきゅ……」
 牛乳が喉を通る。理梨はパックに舌を這わせ始める。仔犬は目の前でお座りして、首を傾げていた。
「ちゅ……くちゃ、ぺちゃ……お兄、ちゃん」
 ……その後暫く、水音が絶える事はなかった。



――――――――――



 暗い夜道。電灯の明かりも消えかけ、近隣の家の塀は高く、漏れる光も僅か。そんな暗澹たるアスファルトの上を歩く、一人の少女。西純高校の制服を着る女学生だ。彼女は手にコンビニの袋を提げて、帰る途中だった。

 ――ひたり
 途端にそんな感触を首筋に感じ、振り向く。そういえば、最近“狼男”が此処等辺で出るとかいう噂を聞いた事がある。その噂を聞いた時はそんな事ある筈がないと思っていたが、何故かこの瞬間に真っ先に思い出してしまう。
 早く帰ろう。噂の真意はどっちにしろ、身の危険を感じた。彼女は足を速める。

 ――タタタッ
「ひぅ」
 ……後ろを、何かが駆けていった気がする。少女はすっかり顔面蒼白となってしまい、更に足を速める。何かがおかしい。何かが、自分を狙っている。そんな感覚に捕われる。
 何処かで犬が吠えている。空模様がごうごうと妖しい。何処かの家からバラエティ番組の音が聞こえる。道の脇に一台の車が止まっている。邪魔だな、と思いながらその横を通る。
 ――通った瞬間、射抜くような視線を横に感じた。思わず、見る。其処には毛に覆われた腕と、鋭い爪。それに獣の耳の様な形をした硬質な角。闇に光る野性の瞳が、彼女のすぐ傍にあったのだった。
「!」
 狼男。叫び声を上げよう。そう思った瞬間、その人間とは思えない腕で口を塞がれ、凄まじい力で何処かに引き擦り込もうとする。少女は必死に車のボディにしがみ付いて抵抗するが、やがて力尽き、ゆっくりと車の陰に引き擦り込まれる。
 車と塀の隙間は狭い。只でさえ暗いこの路地で、車の陰に引き擦り込まれれば誰も気付かない。少女は“狼男”にその場で押し倒される。恐怖で目を剥くが、その表情は恐怖から驚愕に変わる。
 狼男と言うから、男かと思っていた。少女にとってはその事も意外だったが、更に意外だったのは……
「――せんぱ」
 僅かに、塞がれた口から声が漏れる。だが次の瞬間、狼の鋭い爪が彼女の清楚な制服を一気に引き裂く。白い肌が露出する。桃色の下着が露わになる。少女は驚いて悲鳴を上げようとするが、未だ強く口元を塞がれ続けていた。腰元を得体の知れない翼の様なものでがっしりと掴まれる。何をされるのかと恐怖で震える少女。狼はそんな少女を、更に深い闇へと引き摺り落とすのだ。



――――――――――



「あぁ……ま、た……イくぅ……ッ!!」
アオォォ――ン
 相手がそう吠える。何度も魔力を送り込んで、もう此奴の身体には俺と同じ体毛が生えてきている。角も立派に生えた。最初は目に涙を溜めて耐えるようにイっていたが、もう今では立派にそう吠えるようにもなった。此奴の鳴き声で、近所の犬が騒ぎ立てる。
 指を抜く。いやらしい汁が指に纏わりつく。此奴は真っ赤な顔で、ハッハと荒い息をする。俺にしがみ付いて離そうとはしなかった。
「わ、私……わたひ……」
「――ハッ、ハッ、ハッ……」
 まだ理性があるらしい。俺は彼女の双丘の片方を弄びながら舌で味わう。たっぷりと唾液を塗したそれは、暗闇の中で光る。彼女は身をよじりながら更に息を荒げる。もう一度、散々弄ってやった部分に指を突き立て、充血した突起を固い爪で刺激する。
「ハァ、ハァ……、ハゥゥ……ッ」
 最後は、弱く鳴いただけだった。もうそれ以上の体力がなかったんだろう。彼女は俺から身体を離すと、ぐったりと地面に寝そべる。俺は唾液や愛液でびしょ濡れになった自分の身体を毛繕いしながら立ち上がる。
 ふと、俺の鼻がヒクヒクと動く。俺と彼女の甘く濃い匂いの中に、僅かだがシャンプーの匂いと彼奴の臭いが混じっている。思わず、尻尾が振れる。この時をどれ程待ち侘びた事だろうか。この夜に、こんな場所で巡り合うなんて。
 俺は臭いが漂う方向を念入りに確かめてから、また車の陰に隠れた。

―――――

 理梨の望むアイスを買って帰路を急ぐ俺。早く帰らないと、理梨にまた怒られてしまう。全く、兄貴がパシリとは……我ながら情けない。そんな風に思いながら暗い路地を歩く。
 ふと前方を見ると、街灯の電気が消えかけている。只でさえ暗いこの場所で、街灯があんな風に点滅していると、なんだか不安な気持ちになってしまう。念の為後ろを振り向くが、何の気配もない。街灯がキチンと整備されていない場所では犯罪が起こりやすくなるというが、実際どうなのだろうか。
 放置してある安っぽい車の横を通る。その瞬間、俺の身体が強烈に横に引っ張られた。
「え」
 思わず手に持った袋を落としてしまう。気がつけば、俺は車と塀の隙間に引き擦り込まれ、押し倒されていた。
 状況が全く理解出来なかった。こんな事をするのはサキュバスだ。だが俺の目の前には、全く女性らしい腕ではなく、毛むくじゃらの腕があった。
「――ハッ、ハッ、ハッ」
 犬の呼吸音のようなものが聞こえ、何かの液体がぼとぼとと俺の身体に落ちる。相手は俺の服を鋭い爪で切り刻み、俺の陰部を暴く。それで俺は相手の姿がどうであれサキュバスだと確信した。だがこの相手は何時もと違う。言い表しがたい、乱暴さがあるのだ。
「……風呂上がりか。いい匂いだけど、どっちかっていうとお前の汗の臭いがもうちょい濃い方がいいぜ……」
 首筋に顔を埋められ、そう囁かれながら強引に唇を奪われる。だがこれも普通のサキュバスとは違って、貪るような、例えるならば犬が人間の顔を舐めるようなものに近いキスだった。顔が唾液でズルズルになっていく。
(レロ、ペチュッ。チュ、レロォ……シュクッ)
 もがこうとしても、腕が挙げられたまま抑えられている。やがて相手は荒い息を吹きつけながら俺に言葉を掛けてくる。
「俺を見てくれよ……遊馬。俺の……遊馬……ハッ、ハッ」
 俺の名前。知っている事自体は不思議じゃない。サキュバスの大多数は俺を標的にしているのだから。
 だが、名前を呼ばれて初めて気付いた。――この声は、戌井。

 嘘だと思った。改めて相手の顔を見る。変貌しているが、その目鼻顔立ち。間違いない。このサキュバスは、戌井だ。
 どうして戌井が? 俺は疑問を抱く。戌井は蕩けるような表情で、俺の手を自分の胸に宛がい、激しく揉みしだく。指の間に肉がはみ出し、突起が掌をコリコリと刺激する。こんな形で、戌井の胸が予想より大きい事に気付かされる。
「なぁ、誉めてくれよ、遊馬。俺、遊馬が喜ぶからって、頑張ったんだぜ……」
「どうして、戌井」
 戌井は悲しい顔をした。
「イヌイ。……慧、だっ」
「え?」
「慧って、呼べっ」
 戌井はそう要求しながら、俺の逸物を握る。残念ながら、俺の息子はもうとっくに臨戦態勢だった。それもこれも、サキュバスを相手にしている所為で節操なしが身に付いた所為だが。
 そして上体を引き上げた戌井は俺の逸物を激しく扱きながら、すっかりトロトロになっている自分の肉裂に宛がう。このまま犯されてしまえば、俺達の関係はもう修復不可能になる。俺は抵抗するが、サキュバス化している戌井は尋常じゃない力で俺を抑えつける。最後の足掻きは呆気なく終わった。



 そんな時だ。急に周囲が眩しくなる。辺りに激しいエンジン音が響き渡る中、明かりの方向を見ると、何かの強烈なライトで照らされているのが判った。そして溢れる光の中から声が響く。
「大丈夫かっ」
 チッ、という舌打ち。戌井は颯爽と高い塀に飛び乗ると、そのまま家屋の屋根を伝って走り去ってしまう。残されたのは服を剥かれた俺と、横に転がる汁塗れの少女のみだった。
「――清ミャー」
 その呼び方は。眩い光の中から出てきた影は、見る見る内にアイノの姿になっていく。その姿を見て、思わず先に俺がこう言ってしまう。
「お前、こんな所で何してんだよ」
「それはこっちの台詞だ。車の陰に隠れて全裸になって、しかも隣には事後っぽい少女まで。俺が良識ある人間だったら、間違いなく警察に通報する所だ」
 ……確かに、俺でも通報するな、この状況。
「仕方ない。そんな態度ならこの場はお巡りさんに任せるしか」
「いや、駄目っ。俺が悪かったから」
 一先ずアイノは取りだした携帯を仕舞う。
「で、アイノ。お前はどうしてこんな所に……?」
「俺は祝(はふり)の見舞い帰り」
 祝(はふり)とは、アイノの恋人である、入院中の神館祝(みたち はふり)の事である。因みにアイノのフルネームを漢字で書くと如罪恕(あいの はかる)。「神の館で祝う」という神館祝と「罪を恕(ゆる)すが如く」の如罪恕。二人とも作為的な程有り難い名前である。
 如罪の背後を見ると、激しくエンジン音を鳴り響かせるバイクがある。そういえば、此奴は何時も見舞いにはバイクを使っていた。
「良かった。お前が来てくれなきゃ、一体どうなっていた事か」
「性犯罪がまた一件増える事にはなっていたな」
 自棄に澄ましている如罪の態度。そうか。如罪からは戌井の顔が見えなかったのか。正体を教えておいた方がいいかとも思ったが、それは後で話す事にしよう。
「……成程。これが噂の狼男か」
 如罪は俺の話を聞く以前に、俺の横に倒れる少女に上着を掛けてやりながら呟いた。
「いや、男じゃねぇよ。それにこの娘は被害者だ」
「サキュバスの、だろう。別に判ってない訳じゃない。まぁ、見てみろ」
 そう言われて見ると、戌井の被害に遭ったらしい少女の頭にはケモノ耳のような角が生え、身体には獣毛が生えてきているのが判った。
「ふむ。珍しいタイプだな」
「そうなのか」
「いや、知らないけど」
「………」
 如罪は彼女を抱き抱える。
「こんな場所に放置は流石に、アレだな。一旦、俺はこの子を保護するけど、そっちは?」
「あ、ああ」
 その子も裸だが、俺も裸なのだ。俺は如罪の方を見る。如罪は嫌そうな顔をした。
「……俺が信用できないのか? 一応、祝にベタ惚れして他の女に興味ないんだけど、俺」
「いや、違う。その、俺にも服を……」
「これ以上着るもの恵むと、バイク寒いんだよな」
「頼むって! 今度なんか驕るからさっ。アイスとか……」
 ん? アイスと言えば。俺は今、何をしに外に出ていたのだろうか。
「……あー!!」
 見れば袋を道端に落とし、アイスの蓋が開いてしまっている。慌ててそれを拾い上げる。幸いアイスは汚れていなかったのだが、もう溶け始めて来ていたのだった。帰った頃にアイスが溶けていると理梨に何を言われるか判らない。サァ、と血の気が引いて行くのが自分でも判る。
「やっば……急がないと! うおぉぉぉーっ」
 俺は考えるより先に、走り出していたのだった。

―――――

 置いて行かれた如罪は走り去る清宮の後ろ姿を見て呆然としていたが、やがて何かに気付き、こう言葉を投げかける。
「え、ちょwおまwww裸www」
 
―――――

 全裸で帰って来た俺に向かって、理梨が一言。
「自首しよう、遊馬」
「何で!?」
「何で、は此方の台詞よ! 何で裸なの!? 意味判んない、何かしらの形で爆発すればいいのに」
「違うっ。これはサキュバスに襲われて……!」
 しかし理梨は俺の話を聞く様子もなく袋を漁る。そして取りだしたのは人肌に温もったアイスの容器だった。中身を開けるとあら不思議。買った時までは固形だったのに今はすっかり液体に変わっている。
「……何これ?」
「いや、だから……人に見付からないように行動する必要があって、時間が……」
「バカ遊馬っ。アンタはアイスですらまともに買いに行けないの!? 全裸になって帰ってくるしっ。アイスは溶けてるしっ」
「だからサキュバスに襲われたんだってー!」
「嘘! どうせ何処かで別の女の子と話しこんでてアイス溶かしちゃったからサキュバスの所為にしようと思ったんでしょっ。それで全裸で帰宅……」
「どんだけ頭悪い誤魔化し方だよっ。全裸になれば誤魔化せるとなんで思い得るんだよ!? お巡りさんに職務質問されるリスクを犯すぐらいだったら、もっと他の手を考えるわーッ」

 こうして、その日は一晩中理梨と言い争う羽目になるのだった。



――――――――――



 俺達は今、怪しげな佇まいを見せる店の前に立っている。入口付近にはなんとも形容しがたい形の石像が俺達を睨みつけている。漂うのは異国の香り。路地裏にひっそり存在するこの場所は、まるで異世界にでも迷い込んだかのような錯覚を覚えた。店の看板を念の為確認する。

 ――『如罪呪具店』

 そう、此処は如罪の店だ。裏には如罪の父親が切り盛りするタトゥーショップがある。此奴の店を見れば、学校では確実に浮いてしまうだろう。俺はそんな事を思いながら店の扉を開いた。薄暗い室内。外でも匂った香が更に強くなる。そんな中、如罪は制服を着たままカウンターに座って俺を待っていたのだった。
「や」
「………」
 俺は過去に二度此処に来た事がある。一度目は佐久耶の時。二度目は理梨の時。どれもこれも、日常を取り戻したかった俺が藁にも縋る思いで起こした行動。
「――奴さんが吐いたぜ」
 俺はそう言いながら、ロープでぐるぐる巻きにした明日奈を突き出す。
「ん〜っ。ん〜!」
「問い詰めたら、戌井をサキュバスにしたのは自分だって。全くっ、余計な事するなって言っておいたのにっ」
 そう言いながら、明日奈の口を塞ぐガムテープを剥がす。先ほどまで騒いでいた明日奈は、急に落ち着いたように顔を朱に染める。
「遊馬君……こんなの、駄目だよ……。でも、遊馬君がこういう事好きだっていうなら……」
「ちげーよっ。縛ったのはプレイとかじゃねぇよ!」
「夫婦漫才に更に磨きが掛って来たな」
 如罪が笑う。俺はぎろりと睨みつける。如罪は気にする風もなく、こう言った。
「まぁ、同級生の不純異性交遊を促進する会会長の俺から言わせてみればそれは正に願ったりかなったりなのだが」
「そんなのどうでもいいから、戌井を元に戻す方法、教えろ」
 すると如罪はじと目で俺を見る。
「……今まで、どうやってサキュバス達を調伏してきたのか、よく考えてみろ。今回も同じ要領だから」
「はぁ? 何って……お前の協力や策があったから」
「俺は何もしていない。今までの二人は、君が真っ直ぐ向き合ってやったから、君の望む解決を見せただけ。今回も同じようなものだろう?」
 そう言われるが、意味がさっぱり判らなかった。
「……どういう事だ?」
「……え」
 意外そうな顔をされた。
「いや、今まで通りにすれば」
「いや、今まで通りっていうのが判らん。真っ直ぐ向き合うって……具体的には?」
 如罪は呆れた表情を見せて、明日奈に向く。
「此奴、誰の所為でサキュバスが生まれていってるか判っていないのか……? 今までの二人の件も考えて……」
「みたいだね」
「あそこまで鈍いと、病気だな」
「うん。遊馬君、こういう事に鈍いから……」
「え、何。俺、何か拙い事言った?」
「……いや。面白いからよしとする」
 その判断基準はなんだよ。

 ふとそんな時、如罪の視線が俺から逸れる。後ろで扉が開く音がした。振り返ってみると、其処には昨日喧嘩したばかりの妹の顔があった。
「うわ、遊馬」
「お前、なんで如罪んトコに!?」
「客だよ」
 如罪は淡々とそう答える。いつもこの店の前を通る時、「こんなおかしな店にはどんな客が来るんだろう」と思っていたが、それは自分の妹でした。
 如罪は一旦俺達の話を中断して、客として来た理梨に顔を向ける。
「よう、理梨ちゃん。予約しといた物、来ているよ」
「ホント!? 良かった、やっぱりお兄さんトコは手際が良いねっ」
 理梨の嬉しそうな顔。日本に来て日が浅い筈の理梨だが、外ではこんな顔をするんだなと、兄として意外に思った。
 如罪は理梨に意味の判らん事を言い続ける。
「夢想竹と森の角砂糖バサミとヒメツキヒカリ。森の角砂糖バサミはポリエフェメロール封入法でキチンと保存してあるものだ。ヒメツキヒカリは、悪いけどステオフィティシロール封入法の標本しか手に入らなかったが」
「ううん、全然いいよ! 他の店じゃ見る事も出来ないし。……良かった、これでまた新しい薬が作れるっ」
 そういえば、サキュバス化してから理梨は妙な薬を作るようになっていた。その材料はどうやら如罪が仕入れているらしい。どうゆう入手経路だろうか。法には触れないんだろうな?
「あ、判っていると思うけど、夢想竹は因果律を歪めているから早めに使ってくれ。なくなったと思ったらまた来てくれれば、ストックを渡そう」
「うん。ありがとっ」
 因果律ってなんだよ。どんな代物なんだよ。理梨は袋を受け取ると、上機嫌に店から出ようとする。だが途端に俺の方に振り返ると、こう言った。
「あ、遊馬っ」
「うん?」
「ちゃ、ちゃんとお夕飯前には帰って来なさいよっ。……美味しいご飯、作って待ってるから……っ」

 最後に何か小さく呟いたようだが、途端に慌てる素振りを見せ、理梨は店から出て行った。俺は首を傾げてその後ろ姿を見送るが、唐突に如罪がこう喚く。
「――兎に角、明日の晩! お前は戌井と向き合えっ。それで自分で何とかしろ」
 びしりと指を差されて戸惑ってしまう。今までは如罪が俺自身の退魔能力を引き出す道具を渡してくれていたが、今回はそれがない。
「ちょっと待てっ。道具は出してくれないの」
「のび太君みたいな事を言うな」
 誰がのび太君だ。明日奈は如罪にこう尋ねる。
「如罪君って、別にサキュバスが嫌いな訳じゃないんだよね?」
「え、ああ」
「じゃあ何で、遊馬君がサキュバスを調伏する手助けをするの?」
 如罪は即答した。
「愛のない結果より、満ち溢れた結果の方がいいだろう」
「……うん。まぁ、ね」
「遊馬の望む姿で愛される事が彼女達にとっても素晴らしい結果になる。それでいいじゃないか、と思っているのだ。俺は、皆が幸せになる結果があるならそれを選ぶ」
 そう言った如罪は、「まぁ、これは祝の考え方だけど」と其処に付け足す。
「俺はこの世界がサキュバスの物になろうが別に構わないし、世界の運命に文句を付けるつもりもない。そもそも性行為自体を神格化している地方宗教は珍しくもなんともないし。そういえば、世界最古の職業といわれるものは娼婦だという説は知っているか?」
「いや……」
「神殿娼婦、つまりは神に仕える聖職者は元々、身を捧げる事で人々に安らぎを与えていた。時代が変わり、禁欲的になって今の宗教事情がある訳だが、それを鑑みると今のこの時は一種の原点回帰といわれるべき時なのかもしれない、と思っている。……そして俺はその真意を見極めながら祝と幸せになりたいと思っているだけ。祝に悪い事が起こらなければ、俺は基本サキュバスを容認するよ。祝の幸せは、俺の唯一最大の望みだから」
 恋人の名前を口にするだけで幸せそうな顔をする如罪。此奴の恋人に掛ける愛の深さは本物だと、傍に居て何時も感じている。……俺も何時か、此奴のように大切な恋人を持ちたいと憧れてしまう。だから少しだけ、此奴に嫉妬してしまうのだった。



――――――――――



 この前、とうとう遊馬にこの姿を見られてしまった。しかも、俺はキスをした。今までずっと憧れていた事をした。胸も一杯触ってもらったし、俺の部分も彼奴に見てもらった。邪魔が入って最後まで出来なかったのが残念だけど、仕方がない。
 けれど、やっぱり満たされないという気持ちが俺を苛立たせていた。今夜は満月。血が沸騰するような興奮が身の毛を逆立たせる。身体が今まで以上に熱い。人気のない路地。人ン家の屋根に昇って、女を狙う。この前はしくじったから、手を変える。今度は屋根の上に引き摺り上げるつもりだ。何も知らない獲物が通るのを待つ。

 今日も俺は月に吠える。何時の日か、彼奴を群れの頂点に迎える為に――

―――――

 唐突に俺の鼻が彼奴の臭いを捉える。俺は臭いのする方を向いた。かなり遠くだが、この臭いは間違いない。遊馬だ。
 今日はついている。満月で俺の身体は熱くて仕方ないのだ。彼奴の気に入りそうな女を仲間にするだけで終わろうかと思っていたが、気が変わった。今日こそ、俺の熱を彼奴に全て受け止めてもらおう。
 俺は屋根の上を掛けて、臭いのする方へと急ぐ。だがおかしな事に、臭いの元へは何時まで経っても近付けない。どうやら彼奴は町の中を走っているらしい。だったら、きっと汗を掻いている。蒸れたアレを咥え込んで、彼奴に喜んでもらいたい。彼奴の臭いを全て俺の身体に染み込ませてやりたい。そう思うと、ますます足取りが軽くなる。
 徐々に臭いに近付いてくる。遊馬の臭いが濃くなってくるに従ってどんどん鼓動が強くなる。すっかり興奮してしまっていた俺は、全速力で屋根を駆けていた。そんな俺が、道に従って進んでいる筈の相手に、未だ追い付けていない事を不審に思ったのは丁度ある場所に行き着いた時だった。
「……学校」
 思わず口にした。気付けば、目の前には西純高校の校門があった。念の為に鼻を動かす。確かに、この中に遊馬がいる。
 好都合だ。なんで遊馬が夜の学校にいるのかなんて知らねぇが、此処なら逃げられる心配なんてない。思う存分、彼奴を味わえる。彼奴を感じられる。彼奴を受け止められる。彼奴に――甘えられる。

 俺は閉じた校門をひとっ飛びして中に入る。何故か判らないが、排気ガスの臭いが微かに残っている。まぁ、それは置いておいて、遊馬を探す。どうやらグラウンドの方に居るみたいだ。俺は迷う暇もなくそっちに行く。広いグラウンドを見渡す。
 ……居た、遊馬!
 俺はその姿を見付けると、一気に駆ける。そして、思うままに飛び掛かった――。



――――――――――



 俺は戌井と向き合う為、アイスと引き換えに如罪に一つ頼み事をした。戌井を学校に誘き寄せて欲しいと。俺の足じゃ、陸上部のエースで狼女となった戌井の足に勝てない。だけど、如罪のバイクなら上手く逃げられる。
 如罪に(本人は心底嫌そうだったが)俺のパンツを持たせ、町の中を走らせる。町全体を走れば、必ず戌井の鼻に俺の臭いが引っかかる。走り終えたら、学校に戻って来る。これで戌井は学校に来る事になるのだ。如罪は任務を終えた後さっさと恋人の元へと消えていき、残されたのは俺だけとなった。まぁ、明日奈が何処かで見ているだろうが。
 俺はゆっくりと呼吸する。戌井とは、元の関係に戻りたいだけなんだ。また何時もみたいに馬鹿やって、笑い合っていたいだけ。だから戌井と向き合って、彼奴を元に戻さなければならない。
 彼奴を失いたくない。日常の中の、彼奴の姿を欠けさせたくない。その一心で絞り出した、精一杯の知恵だった。

 突如、後ろからたしたしといった音が聞こえてくる。振り返る暇もなく毛むくじゃらの腕が俺の首に巻き付く。飛び掛かって来た戌井に、俺は押し倒されないように踏み止まった。
「遊馬ッ」
 ほっこりと笑みながら、俺に口付ける戌井。俺は拒絶せずにそれを受け止める。サキュバス相手にキスを拒んでいられる立場ではない。意外にも、戌井は舌を絡める事無く、すぐに離れた。
「遊馬……もっと」
「待て、戌井。話がある」
 そんな俺の言葉に耳も貸さず、世話しなく俺の身体に鼻を添わせる戌井。
「遊馬の、臭い……。今日は風呂入ってねぇんだな……♪」
「俺は今までと同じようにお前と接していきたいんだ。だから、戻って来てくれ、戌井」
 俺はそう語る。戻って来て欲しい。今までの二人にはそう語り掛けてきた。勿論「今までの二人に通用した手だから戌井にも通用するだろう」という簡単な考えではない。本気で、戌井とは元の関係に戻りたいと思っているのだ。だから此処で口にした。
 だが、俺を抱き締める戌井は腕の力を強くした。そして、悔しそうな涙を目に一杯溜めて、俺を見上げる。

「イヌイ……じゃねぇ」
「え」
「慧って、呼べって、言ったじゃねぇかよ……」

 悲痛な声を聞く。前に襲われた時にそう言われていた事を、今まで俺はすっかり忘れてしまっていた。
「あ……悪い、慧。忘れてたよ」
「……俺は、遊馬に誉めてもらいたくて、犬になったのに」
 痛みが走る。慧が俺を更に強く抱き締めたのだ。背中がぎりぎりと音を立てる。
「お前は……お前は、俺の事なんて見てくれないんだな……ッ」
「そんな事はない! 俺は、これからもお前と仲良くしていきたいんだ」
 慧が潤んだ瞳、正に仔犬の様な瞳で俺を見上げる。
「ホント、か?」
「ああ。だって、お前は俺の親友なんだから! いつも通り、つるんでいこうぜ?」
 心のままにそう慧に言って見せる。如罪の言う、真っ直ぐ向き合うというのはこういう事だろう。自分の気持ちを相手にしっかりと伝える事。謂わば真心だ。これで慧も判ってくれるに違いない。……そう思っていた。

 途端に慧が目元から何かを零す。涙。
「――違う」
「え」
「そんなの、俺はヤダ」
 慧は提案を拒絶した。俺は予想外の返答に混乱する。慧は俺とはもう付き合いたくないのだろうか。いや、だったらなんでサキュバス化してまで俺に纏わりついてくる。俺は判らなくなってしまった。
 慧は俺の腰に手を回すと、ひょいと持ち上げる。戸惑う俺に慧は悲しい顔をした。
「……判んねぇんなら、直接身体に教えてやる……ッ」
 そう言うと、慧は俺の身体を体育倉庫に運び、放り込む。扉が閉まると中は真っ暗。だが、慧の瞳だけが白く鈍く闇の中で光っている。獣の目は暗闇でもよく効くのだ。
「慧……?」
「――ハッ、ハッ、ハッ」
 慧の荒い息遣いと一緒に、衣の擦れる音が聞こえる。ベルトの金具を乱暴に外し、下着を脱ぐ。そんな光景が闇の中に浮かんだような気がして、劣情が煽り立てられる。
 白い二つの光が迫ってきて俺を押し倒す。荒い息遣いが間近に迫る。慧の唾液が俺の首に落とされる。
「慧……やめてくれ」
 これ以上やると、今までの関係じゃいられなくなる。俺とお前の日常が崩れ去る。だけど慧はせかすように俺に唇を落とした。
「ん……ペロッ、ちゅ……」
 慧は俺の口を舌でこじ開け、溢れ出る自身の熱を俺の中に注ぎ込む。そして代わりというように俺の舌を吸い、扱く。何処までも乱暴なやり方だ。荒い息は俺の頬を撫でる。激しく、それこそ無性に求められる。そのがっつく様子はまるでじゃれついてくる仔犬のようで、思わず頭を撫でてしまいそうになる。だが手を伸ばそうとした瞬間に慧は離れる。暗闇に目が慣れてきた俺の前には、慧の嬉しそうな表情があった。
「やっと遊馬が手に入る。遊馬が、俺のものになるんだ。――」
 そう言いながら、俺のズボンのホックを破壊する。役目を果たせなくなったズボンは呆気なく脱がされ、俺の怒張する逸物を晒す。
 慧は身体を下げる。俺の逸物の皮を引き、手で撫でる。毛に覆われたそれに撫でられると、チクチクと妙な感覚を憶える。慧は鼻を動かし、燃えるように熱い舌を先端に這わせる。
「遊馬の臭い。此処が一番、キツイな……(くんくん)」
 臭いを嗅がれていると思うと、なんだか腰がむずむずとしてくる。慧は肉球や爪を駆使して俺の逸物を激しく扱き付けながら、先端に溢れてくるカウパーを味わう。友達という関係を全く逸脱した行為。理梨を抱いた時の背徳に似た、一線を超えてしまったという感覚が、俺をオーガズムに近付けた。
 やがて俺の逸物に慧の唾液と俺自身のカウパーが覆い塗されたところで、慧は汁気を吸い込みつつ離れる。そして官能的に、汁で汚れた口元を舌でさらえる。闇の中で慧の下唇と俺の逸物が、光る糸で繋がっているのが見えた。
「……ハッ、ハッ、ハッ」
 慧は大きく口を開け、一気に逸物を口一杯に頬張った。熱くヌルヌルした感覚。舌が苦しそうに、逸物の表面をズルズルと這いずる。
「け、慧ッ!?」
「ジュル、クプッ。……んぁ……ふ……」
 慧は表情を軽く歪ませるが、やがて慣れたのか、舌を前後に動かして裏筋を刺激する。
「ふぁ……んぐっ。チュプッ、ネチッ……グプ」
 そして、慧のフェラは次第に激しさを増す。口全体で肉竿を扱きあげ、溢れる先走り液を喉へと運び、舌を這わせる。周囲に汁を飛び散らせ、泡立たせながら慧は一心不乱に俺を貪る。俺はその押しつけがましい快楽の前で、無意識にカクカクと腰を動かしていた。
「はぁぁ……っ! く、あっ……う。――」
 頭の中が白くなる。込み上げた劣情の証が、慧の口を満たす。俺は全身にねっとりとした汗を掻いていた。
 慧は俺の熱を口の端から垂らしながら、ゆっくりと喉を鳴らす。どうやら飲み込んでいるらしい。口の中が空になった所で、俺の竿に絡む分を吸い込んだ。オーガズムで力が抜けてしまっている俺。慧は俺の身体に這い上がって来る。俺の手を取ると、その指を絡め、自身の媚肉へと誘った。
「ハッ、ハッ……。一杯出たじゃねぇか。俺の事親友だって言った癖に、こんなに欲情しやがって」
「そ、それは……」
「親友と思っている相手でも遠慮なくイっちまうんだな、テメェは。……変態め」
 口ではそういう慧だが、尻尾は振れ、瞳は喜びを表わしていた。
 俺の指が慧の恥部に入っていく。もう滴る程に水気が増している其処は、異物の侵入を拒む気配もなかった。
「俺の此処、挿れたら絶対気持ちいいぜ……?」
 慧が誘うように、指に伝わる感触は確かに柔らかく、居心地良さそうだった。それに慧の呼吸に連動して吸いつくような動きや、中の襞の具合もいい。指でイってしまいそうだ。
 どう考えても力で適わない俺は、一先ず慧と話をしてみる事にした。
「……なぁ、慧。どうして……こんな事」
 サキュバス達が俺を懐柔しに来るのは判る。だけど今まで、こんな事になるとはお互い考えてもみなかった筈だ。こんな事をする相手とは思っていなかった筈だ。だったら、お前はサキュバスになっても、他のサキュバスと同じような行動を示す必要はない。俺はそう思っていた。
 すると慧は尻尾を振るのを止め、俺の腕を離すと力無く項垂れた。
「……マジで気付かねぇのな」
 慧が何か呟く。
「此処までしてんのに……なんで気付かねぇんだよッ」
「な、何がッ!?」

「――好きなんだよッ、バカ!」

 突然、慧が顔を真っ赤にしてそう叫んだ。体育倉庫にその声が響き、備品がガタゴトと音を立てる。息を荒げる慧。俺は呆気にとられてしまった。
「……俺だって、明日奈みたいにお前とイチャ付きたかったんだ。でもお前、俺の事、女として見てくれねぇじゃねぇか……。だからこうしてるんだ。お前に思い知ってもらう為に」
「思い知ってって……」
「――もう、お喋りは終わりだ」
 慧はそう言うと、徐に俺の逸物を握り、腰に宛がう。
「俺の“女”を味わえば、お前みたいなニブチンにだって判るんだ。俺が正真正銘、女だってこと」
 そう言うと慧は自分の媚肉を広げ、俺の竿にゆっくりと腰を降ろす……
「あ……くぅぅ……っ! ハウゥ……ンッ」
 肉竿の先端が一瞬何かに引っかかり、貫いた。陸上などの激しいスポーツを行っている女性は運動の最中に処女膜を破る事があるらしいが、年中陸上をやっている筈の慧の処女膜はこの瞬間まで保たれていたようだ。
 処女を失っただけで慧はフルマラソンを完走したかのように肩を震わせている。その表情には歓喜。俺のモノを飲み込んだ事実を再確認するように感部を撫でると、その尻尾が激しく振れた。
「ん……やっと、お前に捧げられた……」
 破瓜の血が闇に煌めく。俺は慧の初めてを捧げられてしまった。もう、俺と慧の日常は取り戻せない。
「捧げられたって、お前」
「んぁ……判ってんだろ。俺のハジメテだよ」
 そう言ってニシシと笑う。余裕ぶってはいるが、先程から膣内の締め付けはガチガチに固い。此奴だって、初めての痛みに強気でいられるのは口だけのようだ。
「はぁ……ぁ。遊馬のチンポが、俺の中、に……っ。熱ぃ……」
 慧の健康的な肌から汗が垂れる。スポーツで鍛え上げられた、引き締まった体から出た汗は殆んど水の様な振る舞いをしてサラサラと流れ落ちる。倉庫の中が段々と蒸し暑く感じられて来た。
「動くぜ……」
 落ち着いてきた慧はゆっくりと腰を引き上げる。膣に締め付けられた俺の逸物は引き上げられ、腰が浮く。慧はまた、ゆっくりと腰を落とす。本当にゆっくりとそんな動きを繰り返しながら、俺の分身と慧の中が擦り合わされる。
 倉皇している内に、俺は慧の無茶苦茶な告白に対して何かレスポンスを返しておくべきだと気付き、口を開く。
「……なぁ、慧」
「……っ。な……ぁんだよ……っ」
「俺の事、何時から好きだったんだ?」
 すると慧は腰を止めて、俺から視線を背ける。
「……一年の時、俺、先輩と揉めた事あっただろ?」
 そう言われて時をさかのぼる。少々物騒な話な為、思い出したく無かったりするのだが。
「ああ。……それが?」
「俺の態度が気に食わないってさ。そんで、柔道部の男三人相手に喧嘩だ。……当たり前だけど、俺はボロ負けでさ。俺が陸上部のエースだって知ってた彼奴等は、見せしめに俺の足を折ろうとしやがった。そんな時、お前が……」

『――お前等、女の子相手に恥ずかしくねぇのかよッッ!!』

「……ってさ。あの後は俺の代わりにお前がボコられてたけど、明日奈が先生呼んで来てくれて……結局、俺よりお前の方が怪我してやがんの。ははっ、全く……お前って、ホント馬鹿だよな」
 慧は淑やかに頬を染めた。
「……でも、俺にとっちゃサイコーにカッコよかったんだぜ?」
 慧はそう言うと、またゆっくりと腰を上下させる。その瞬間の慧の表情は、本当に誰よりも可愛い女の子の顔をしていた。
「女の子扱いされたのも、あの時が初めてなんだ。俺、ずっと口が悪いから、今まで男みたいに扱われててさ。それも、スゲー嬉しかったんだ」
「慧」
「でも、お前の近くに居るようになってからおかしくなった。お前と仲良くなるにつれて、“お前が”俺を男扱いするようになった。それがスゲー悲しくて……俺をちゃんと見て欲しくて……だか、ら」
 俺の上に、温かい雨が降る。慧は想いを溢れさせる。腰の動きも、止まった。
「好きだから近くに居たいと思ってるのに、近付けば近付くほど遠くなってく。俺、もう、訳判んなくなっちゃって……。だから、こうするしか手がねぇんだよぉ……っ。遊馬に振り向いてもらうには、サキュバスになって遊馬を……!」
「もういい」
 俺は慧の言葉を遮る。もう充分判った。
 確かに俺は馬鹿で鈍い奴だ。だから、慧を此処まで追い詰めてしまった。
 俺は弱々しく泣き崩れる慧を、そっと抱き締めた。震える身体は、捨てられた仔犬の様に孤独を訴えていた。
「慧、しよう」
「……え!?」
 驚いた表情。止め処なく溢れる涙が輝き散る。
「俺は慧としたい」
「え、ええっと。でも、お前、俺の事親友って……!?」
「あんなにエロい事されて、今までの関係でいられると思ってんのか?」
「いやっ。思っちゃいねぇけど……!」
「じゃあこの機会に今までとは違う関係を築こう、慧」
 そう囁きかけると、慧は小さく「うん……」と答えた。

―――――

「恥ずかしい……」
 慧がひ弱な声で鳴く。マットの上に四つん這いになった慧の後ろに俺が膝立ちし、慧の腰を掴む。慧は恥ずかしさから、上半身をマットに傾けた。
「こんな格好じゃあ、まるっきり犬扱いじゃねぇか……」
 俺に向かって掲げられた尻と、慧の拒絶するような言葉とは裏腹に触れる尻尾。
「何言ってんだ。犬の癖に」
「はぁ!? 俺は狼だっ。犬じゃねぇし!」
「どっちでも同じだろうが。交尾のスタイルは」
「そ、そんなの……俺に求めても……」
「じゃあ止めるか?」
 意地悪くそう問うと、慧の耳がぴくりと動く。
「……ダメ」
「うん?」
「……今夜は、満月なんだ。だから、身体が……熱くて……遊馬のを咥え込んでないと、おかしくなっちまう……」
「咥え込むって、お前……」
 呆れてしまう。俺の腰元に宛がわれる慧の部分からは一層蜜が溢れだしていた。それを見ていると、獣染みた欲望が湧きあがってくる。俺だって、一介の男なのだ。
「――挿れるぞ」
「ん……」
 慧の呻き声を承諾と解釈し、腰を落とす。後ろから慧の中を抉る。奥まで達すると、慧が力無く尻尾を振った。
「辛くないか」
「だいじょぶ……」
 一度挿れただけでもう俺の形に馴染んでしまったらしい。其処等辺はサキュバス在りきだろう。
「動いて、いいぜ……?」
 今まであれだけ大暴れしておいて、和姦となると火が出そうなほど恥ずかしがる慧。俺の何処かに燻ぶるサディスティックな部分が疼く。
 ――肉竿をゆっくりと引き抜き、助走を付けて慧の中に突き挿れる。
「! きゃうんっ」
 仔犬の悲鳴を聞く。俺はそのまま黙々と、慧の膣路に沿って中を掻き回す。慧はすぐに俺のペースに合わせて大振りに腰を前後させ始める。
「ハァァッ。ハッ、ハッ、ハッ……んんッ。く……きゅぅ……くぅぅん……!」
 慧が目に一杯涙を溜めて、必死に鳴き喚く。ふと、この体勢は以前如罪が言っていた東北闘犬に通じている事に気付く。相手の背後に回って腰を振ったら“変態”という反則負けになるのだそうだ。
 ……取り敢えず後で如罪をぶん殴る事にしよう。

「ハァ、ハァ……。あ……くきゅうっ、あ、く……ハゥゥ……」
 俺は乱れる慧の胸を後ろから鷲掴みにする。柔らかいそれを物の様に弄ぶと、慧が一層激しく尻尾を振った。
「あ……ちょ、む、胸……!」
「慧のおっぱいって柔らかいんだな」
 慧から教えてもらった犬の飼い方。うろ覚えだが、適当に撫でていれば懐くとか、そんな事言っていた気がする。
 すると慧は先ほどよりも大きく仰け反りながら言う。
「ハッ、ハッ……! さ、触って……」
「え?」
「もっとっ。もっと俺に触ってくれ、遊馬っ」
 その望み通り、俺は慧の乳房を揉み狂わせる。乳首を指で挟み、先端を穿り、乳房全体を乳搾りの様に扱いた。慧は一層激しく唸る。お互い限界は近かった。俺は慧のテンションに合わせて激しく竿を突き入れる。接合部から泡立った汁が零れ、マットに濃い染みを作っていた。
 やがて……慧は暗闇に吠えた。
「あ、あきゅっ!? ん、んん〜っ! は、はぁ……あ」
 アオォォ――ン

 ……倉庫を揺るがす咆哮の後尻尾もだらりと垂れ下がり、慧は尻を掲げたままぐったりとしてしまう。凄まじいオーガズムを味わったのだろう。太股や肩が恍惚に震えている。
「慧」
 名前を呼んでやると、快楽の渦に沈みながらも弱く尻尾を振る。その仕草が可愛くて、マグロ状態の慧の中に自身を突き入れながら言う。
「――これからも、お前を見ていてやるからな」
 そしてもう一度腰を深く落とした瞬間、頭の中を何かが弾けたような感覚が襲う。そして込み上げる証明を、今一度慧の子宮に刻み込む。
「……すげ……膣内出しって、こんな感じなのか……」
 正気に戻ったらしい慧が空虚に呟く。慧の身体が段々と変化して来る。俺はもう一度躍動し、中に放つ。慧の毛が黒く染まっていく。
「まだ、出るのか……?」
「ああ、たぶ……んっ」
 第三弾。慧の中に放った精はとうとう溢れだす。余波は終えたらしく、俺の逸物は静かになる。俺の精を吸い取った慧の身体が、サキュバスの姿からいつもの女子高生の身体に戻っていく。あれだけ自己主張の激しかった尻尾も消え、慧の角や翼も消え去り、陸上で鍛え上げられた身体だけが其処に残ったのだった。
 その身体にじんわりとした汗を滲ませながら慧が呟く。
「……あれ? 戻っちまった……」
「ああ。これからは、サキュバスの力に惑わされる事はない」
 自在にサキュバスになれる力は失っていないが、少なくとも明日奈程の色情魔にはならないし、見境なく盛る事もない。つまりは、自制を得た訳だ。
 慧は少し残念そうな顔をすると、俺に擦り寄り、こう話した。
「なぁ……俺がサキュバスじゃなくても、見ていてくれるか……?」
「勿論」
「じゃあ、証をくれよ」
 そう言うと慧は下から俺の唇を奪った。奪ってから、改めて俺に体重を預ける。
「……この姿でしようぜ」
「え」
 俺が躊躇を見せると、慧は淫靡な表情で俺に詰め寄る。
「あぁ? 健全な男子がこれぐらいで終わる訳ねぇだろ。ほら……息子の方もまだイケるって言ってんぜ?」
 今では爪も毛も肉球もなくなった慧の細指で、俺の逸物がくりくりと弄られる。確かに俺の部分はまた収まりがつかなくなっていたのだった。
「サキュバスじゃない俺ともしておいた方がいいだろ。それともまだ俺の事親友だとか言うつもりか?」
「まさか」
 生意気な挑発を繰り返す慧に、俺の方から口付けする。そしてそのまま身体を捻じり、俺が慧の上に覆い被さる形となる。いきなりの体位変更に慧が頬を染めながら軽く悲鳴を上げた。
 慧の足を広げ、白濁液の漏れる其処をじっくりと見定める。上からの眺めも悪くない。慧は恥ずかしがって暴れる。
「バ、バカ……ッ。そんなに……見んな……っ」
「でも、慧の此処、すげーエロイ」
 なんてったって、俺の子種を注ぎ込んだ後なのだ。その部分は蕩け切り、不思議な臭いを放っていた。そのお陰で逸物も最初と同じぐらいの怒張を見せる。
 俺は慧に腰を落とす。ズブズブと中にめり込む。サキュバスの時も最高の歓迎が待っていたが、元に戻っても慧の中は優秀だった。俺のを絞り取るかのように蠕動する。俺はさっきまで慧が獣だったように、無性に慧を求めた。
「!? あぁっ。い……ひぅっ、んあぁっ!?」
 うっすらと涙を浮かべる慧は、その甘い声を抑える事なく鳴く。
「はぁぁっ。ダ、ダメだ……! あ、遊馬……これ、ダメ……んあぁっ!?」
「慧、今のお前、最高に可愛いぞ」
「んな恥かしい事、言うな……っ! はぁ、はぁぁ!?」
 慧の中を激しく掻きまわしながら慧の胸を鷲掴みにする。今度は上から押さえつけるように乱暴に。慧は身を捩り、目から涙を一筋垂らしてよがり続ける。
「すげ……これが、遊馬のセックス……んんっ。明日奈と、いつもこんなにすご……あぁっ」
「……こうしてると、まるで俺の方が獣みたいだな」
「ばっか。今のお前はまるっきり……ひゃぁんっ。し、親友って言ってた相手を……こんな風に……く、あぁっ」
 突かれてよがってる癖に好き勝手言ってくれる。こう見えて、毎晩サキュバスを相手にしているんだ。此方の実力なら、同年代相手に負ける訳がない。だが、俺としてもそろそろ限界が近付いていた。
「慧、そろそろイく」
「あ、ちょっと待って……」
 このタイミングでの制止は、やはり外に出してくれという要求だろう。俺は判った振りをしながら答える。
「ああ、外だろ」
「違うっ。……な、膣内に……出せよ」
「は? え、いいのかよ」
「どうせさっき出しただろ……」
 慧がそう言うのなら。俺はしっかりと腰を打ち付け、慧の姿を満喫しながら、最後に深く分身を差し込む。電流が走る。慧の身体が大きく仰け反るのと同時に、俺の肉竿は慧の肉体に更に証を刻みこむ。

 ……お互い体力を使い果たし、ぐったりと体操マットに倒れる。日頃の授業で使っている為、泥と汗の臭いが此処にはあったが、それに俺達の甘い臭いが上乗せされる。
「……遊馬に一杯マーキングされちまった……。遊馬の臭いが俺に染み付いて……もう眠れそうにねぇ」
「そうか」
「……なぁ、これから俺ン家に来いよ。今日は親……帰ってこないんだ」
「でも犬の世話が……」
「そういや結局、お前ン家行った時、犬の世話の仕方教えてなかったよな」
「え? あ、ああ……」
「じゃあ、俺ン家でじっくり教えてやるよ……いいだろ?」
 無邪気に微笑む慧は俺の首に抱き付き、心の底を見透かすようにじっと見詰めてきた。朝帰りなんてしたら、理梨が怒るのは目に見えている。だが今は、この円らな瞳に抗える者などいるだろうか。例えるならば、仔犬が飼い主に向けるような、無償の愛を具現化したような……



――――――――――



 結局、朝帰りした事を理梨に怒られる事はなかったが、本気で泣かれてしまった。事情を聞くと「遊馬が狼男に食べられたかと思ってずっと心配していた」のだそうだ。(その後慧の家に泊まっていた事を告げると、打って変って烈火の如く怒られる羽目になったが。)
 あの後慧は陸上でも調子が出てきた。今まで溜めてきたものが一気になくなったからだろう。今日も楽しそうに走っている。
「……お? 遊馬ー」
 フェンスの裏で見ている俺にめざとく気付き、満面の笑みで慧が手を振ってくる。俺も手を振り返す。そうしていると隣に明日奈が立ってこう呟く。
「……慧ちゃん、吹っ切れたみたいだね」
「ああ。……なぁ、明日奈は慧の為に、慧を襲ったのか?」
 明日奈はニコリと笑う。その笑みは天使というより小悪魔な気がした。
「なんのことー?」
「……いや、別にいいんだ」
 俺はそう返して、慧の姿を見詰める。すると、背後から男の声が響く。
「よう。放課後に体操着姿の女子を視姦とは、精が出るな」
 振り返ると、其処には如罪の姿があった。
「なんだよ。なんか用か?」
「用がなければ、男が話しかけてはダメな人類なのか? お前は」
 人を女誑しのように言ってくれる。特に用もないのに如罪が俺に話し掛けてくるのが珍しいから言っただけだ。
 如罪は俺達と一緒に慧の様子を見て一言呟く。
「……ワンコ、吹っ切れたみたいだな」
「あ、それさっき私言ったよ」
「あ、そっすか。サーセン」
 台詞の出鼻を挫かれる如罪。
 そんな時、何処からか疾走音が鳴り響く。陸上部はもう走り込みを終えている。只、陸上部員の集まりを見ると、慧の姿がなかった。

「――遊馬ー!」
 慧の俺を呼ぶ声が聞こえた瞬間、ドゴスッ、という何か柔らかい、例えば人の様なものを殴り付けたような音が響いた。
「ぐふぅぅ……っ!? な、なんで俺殴られたの……誰か説明して……」
「納得いかねぇ!」
 慧は、俺に駆け寄ると見せかけ、如罪を標的に定めていた。如罪の腹に助走をつけた拳をねじ込んだ慧はそう言いながら拳を抜く。如罪の表情が「俺の方が納得いかねぇよ」と物語る。
「聞いたぜ! 俺が狩りに出てた時、噂になってたってっ」
「ああ。……それが?」
「――誰が狼“男”だッッ。そんなに俺は女らしくねぇのかぁー」
「(バゴンッ)あひるッ!?」
 慧の怒りのアッパーを喰らい、如罪が鳥の名前に似た悲鳴を上げる。地面に倒れ込む如罪は、逆上の光を鈍く光らせる。
「なんで俺を殴るッ。狼男の噂は、俺が流したのではないからなッ」
「当たり前だ! 遊馬を殴れる訳ねぇだろ!」
「……いやいやいや!? そういう事を訊いているのではなくて、何故にこのような暴力行為に及ぶのかという事を……」
「ムシャクシャしたからだ」
「……えぇー……」
 如罪は慧に話が通じないと悟り、怒る気力も失せた様だ。対して慧も気が済んだようで、汗を滲ませながら俺に微笑んだ。
「夏休みに県大会があるんだ。……見に来てくれるよなッ?」
「ああ。勿論」
 慧は歯を見せて笑う。それは今まで見た中でも一番慧らしく映った笑顔だった。



TOPへ