サキュバス的エロゲ・Mルート

眼鏡少女は女王様!?

 逢間佐久耶と級友になったのは西純高校の二年に進級してからのことだったが、互いに知り合ったのは、それよりもう少し早い。
 夏休み間近の切羽詰まった時期だったから、七月だろうか。高校に入って二回目の考査、所謂期末考査というものを控え、単語カードと睨めっこをしながら朝の通勤ラッシュの電車に乗っていたときのことだった。ぼくの耳に、妙な声が届いた。何かを必死で堪えるような、苦しげな声である。ぼくは何とはなしに顔を上げて、周囲を見回した。
 見つけ出して助けようなど殊勝なことを考えていたわけではない。何と言っても、乗車率二〇〇パーセント超という状態の車内である。一六〇台に漸く届いたばかりの高校一年生にとって周囲に出来上がった人垣は未だ未だ高く、大人達の汗ばんだ背中が見えるばかりだ。
 だから、緩やかなカーブに差し掛かって車体が傾き、人垣が揺れてできた僅かな隙間からその光景を見付けられたのは、全くの偶然と言って良かった。
 西純高校の制服を身に纏った女子学生が、見えない何かと闘っていた。
 闘うと言っても、拳や蹴りが飛び出すような激しいものではもちろんない。精々身を捻っている程度である。
 野暮ったい眼鏡の載った顔を紅潮させて、何かを堪えるように必死に声を押し殺している。その様はまるで便意に苛まれているかのようだったが、奇妙にまくれ上がったスカートがもぞもぞとうねっているのを見て、ぼくは瞬時に状況を悟った。
 痴漢だ。
 ぼくはすぐに行動を起こした。電車の揺れを利用して人々の間を擦り抜け、不届きな腕をがっしりと掴む。場所が狭いため捻り上げることはできなかったが、痴漢を硬直させるには十分だった。逃げ出そうとするのを遮り、大声を上げる。
「やめませんかね。いい大人が、痴漢だなんて破廉恥な真似!」
 台詞の四分の一ぐらいは当てずっぽうだった。実はこの時点において、ぼくはまだ相手の顔も恰好も確認していない。「いい大人」だなどと言ったのは、ただの先入観によるものである。痴漢などと言うものは碌に女も出来ない・だらしのない中年男のやる行為だと、当時のぼくは頭から決めてかかっていた。
 偶然というものは重なるものらしい。果たして腕の先・肩の上に載っていた顔は、草臥れた感じのする・見るからにうだつが上がらなそうな中年男のものだった。怯えと驚き・怒りが綯い交ぜになった、奇怪で気色の悪い表情を浮かべている。
 如何にも痴漢行為を働きそうな破廉恥漢の顔と表情だと思った矢先である。中年男の両眼が邪な光を迸らせた。間を置かず口が開いて、悪臭と妄言を撒き散らす。
「な、なにを言っているんだ、このガキは! いきなり人の手を掴んだかと思えば、無理矢理ガキの尻なんか触らせやがって! とんだ言いがかりだ。い、今すぐ放したまえ!」
 醜く嗄れた・実に聞き苦しい声だったが、声量だけは素晴らしかった。先にぼくが上げた告発の声を軽く凌駕している。
 音もなく周囲に動揺の小波が広がり、ぼくたちの上に視線が集まる。殆どはぼくたちの存在を煙たがるようなものだった。要らぬ騒ぎを起こすなと罵りたいのを、必死で堪えている風である。その合間を縫って投じられる冷ややかな視線は、痴漢冤罪を疑うものだろう。仕方のない話だ。自身の一時の幸福のことしか考えられない愚かな女たちのおかげで、痴漢冤罪は日常茶飯事の域に達している。挙げ句このエセ痴漢被害者の大半はほとほと魅力に欠けた醜い容姿をしており、正しく「悪女」と呼ぶに相応しい。
 翻って件の女子生徒はといえば、大いに魅力的だった。分厚い眼鏡のせいで幾分野暮ったい印象があるが、顔立ちは可愛らしく、一本に纏められた長い黒髪は艶やかで美しい。何よりその体つきは女性らしい起伏に富んで、男の目を惹き付けずにはおかないものである。
 大人しそうで肉感的。ローリスクハイリターンというわけで、痴漢にとっては恰好の獲物に見えたことだろう。
 徹底的に叩かねばならない。ぼくは負けじと声を張り上げた。
「よくもそんな出任せが言えるものだな! 恥を恥と思わず、罪を罪と認めない。そんな奴をのさばらせておくから、社会がダメになるんだ!」
「だ、誰に向かってそんな口を利いていると思っているんだ! 私は……」
 異臭を伴う口舌は途中で途切れた。停車駅を目前にして電車が速度を落とし、どっと乗客が揺れ動いて、怒鳴り合う両者を等しく押し潰したのである。あらぬ方向から肘に負担が掛かり、痛みに耐えきれず、うっかり中年男の手を放してしまう。
 しまったと思ったときにはもう遅い。間もなく扉の開く音がして、外気が車内に吹き込んだ。新たな人の流れが出来上がり、誰も彼もを外に押し出す。
 逃げ場を求める中年痴漢にとっては願ってもない好機である。邪欲と贅肉がたっぷり詰まった身体を無理矢理人の間に割り込ませて、卑劣漢はあっという間に姿を眩ませた。
「くそう、あの変態め!」
 出口へ続く上り階段に向かって、のろのろと人の群れが流れてゆく。それを憎々しく眺めながら悪態を吐いていると、すぐ後ろで声があがった。
「あ、あの!」
 振り向くと、痴漢の被害に遭っていた女子生徒がいる。ぼくは精々表情を和らげて彼女を見返した。
「すみません、逃げられてしまいました」
「い、いえ……そ、その、すごく、助かりました!」
 勢いよく女子生徒が頭を下げる。それこそ、ガバッと音がしそうな勢いである。慌ててぼくは手と首を振った。
「いや、そんな。頭を上げて下さい――先輩」
 呼び方に窮したぼくは、一先ず先輩と言うことにした。あれだけ見事な身体をしているのだ。腐れ縁の幼馴染み――当然のことながら、当時は未だ恋人同士の関係ではなかった――夢宮明日奈と較べると、とても同じ一年生とは思えない。
「で、でも、わたし、とっても怖くて、でも助けを呼べなくて! 土屋君が助けてくれなかったら、きっと……」
 彼女の声は、突然鳴り出したけたたましい発車ベルに遮られた。録音された女性の声がにこやかに電車の発車を告げる。はっとして車両に視線を転じると、まだ最寄りの扉には人の乗る余裕があった。
「いけない。先輩、急がないと発車しちゃいますよ!」
 漸く顔を上げた彼女を急かして、一足先に電車に飛び乗る。腕を伸ばして捕まるよう促すと、彼女は表情に決意を漲らせて、けれどもおっかなびっくりぼくの手をとった。
 間一髪である。彼女を電車内に引っ張り込んだのと同時、扉が閉まった。がくりと車両が揺れて、景色が流れ出す。
「危ないところでしたね。先輩、大丈夫ですか? スカートとか、噛まれてません?」
「は、はい。そ、それは、大丈夫、です、けど……」
「けど……?」
 ぼくは視線を下げた。美しい旋毛が見える。もぞもぞと身体を動かして、彼女はゆっくりと顔を上げた。
「わ、わたし、先輩じゃ、ない、です。一年生、だから……」
「え?」
 驚くぼくの視界の片隅で、立派に盛り上がった胸がちらつく。
「ご冗談を。そんな身体しておいて。同じ学年なら噂話の一つ二つ飛んできますって」
 と言いかけるのを危うく堪えて、ぼくは彼女を見つめた。先を促す。
「サクヤ……アイマサクヤって、いいます。土屋君の隣の学級で……昨日の体育、バレーボールでは、夢宮さんのチームと戦いました。ぼろ負け、しちゃいましたけど」
 驚きの事実である。ぼくは必死で記憶を掘り返した。昨日は雨天だったため、男女ともに体育館で授業を行うことになった。明日奈のチームがバレーボールの試合をするというのでぼくも観ていたのだが――残念ながら、敵方の顔ぶれはさっぱり覚えていなかった。
 何とも気まずいものである。彼女はぼくの名前まで覚えてくれているというのに、ぼくはと言えば、彼女のことを何一つ知らないのだ。
 表情から察したのだろう。何と言ったものか悩んでいると、逢間佐久耶はふるふると頭を振った。
「あ、あの! 気にしないで、下さい。覚えていらっしゃらなくて、当然だと、思いますから。土屋君、夢宮さんの方ばかり、観ていたから」
「そんなことはないんだけど」
 言葉では否定したものの、実のところあまり自信がなかった。美少女だという噂をよそにしても、快活な明日奈は何だかんだでよく目立つ。その気がなくてもつい目が行ってしまうのだ。
「可愛いですよね、夢宮さん。元気もよくて。私なんかじゃ、とても敵いそうにない……」
「アイマさんも十分魅力的と思うけど。髪なんか艶々だし」
 スタイルだって良いし、と胸の中で付け加える。流石に今この言葉を口にするのは憚られた。相手は痴漢に遭ったばかりの気弱な女の子である。この手の話題は振らない方が良いに違いない。
 再び大きく車両が揺れた。窓外の景色の流れが段々と緩やかになる。西純高校の制服がちらほら認められるようになった。もうじき西純台、ぼくたちの降車駅である。
「今日は降らないといいなあ」
「そう、ですね」
 逢間佐久耶が相槌を打つ。雨は嫌いかと尋ねると、彼女は再び頷いた。手にした鞄を指し示す。
「本が、濡れてしまいますから」
 なるほどとぼくは納得した。こう言っては何だが、いかにも彼女らしい理由である。
 間もなく電車が停車して、ぼくたちは西純台のホームに降り立った。

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